「神は愛です。」だからこそ回心しましょう

教会の中で第2バチカン公会議以来、主なる神の愛をもっと強調するようになりました。それは全く正しいことです。私としては聖ヨハネが断言している「神は愛です」(1ヨハネ4:16)という言葉は聖書全体を解釈するには何よりものカギだと確信しています。ただし、主なる神の愛を強調すれば、四旬節の意味をどう考えたらいいか、という問いかけになるのではないかと思います。主の愛を考えたらもっと明るい、嬉しい気持ちになりますが、回心する為に自分の罪を見つめたら、もっと暗い、重たい気持ちになります。そうしたら罪を見つめたくなくなりますが、「だって神様はありのままの私を愛して下さるから、自分の罪を見つめるより何か人の為になることをやったらいいんじゃないか」と考える人もいるかもしれません。 

要は「神は愛です」という言葉は何を意味しているかを正しく理解することが大事です。

 

「神は愛です」という観点から聖書を注意深く読めば、聖書全体は「片思いの物語」すなわち主なる神の人間に対する片思いの歴史だということに気付きます。主は愛を持ってご自分との深い愛の関係に入る為に人間を創造されましたが、人間は主から離れて、苦しい時に主の愛によって助けられては主に逆らってきました。こうして来た人間は「神は愛です」と聞いて、私たちを愛して下さるという嬉しい知らせを受けて、その愛に心から応えるより、その愛に甘えるという傾向があります。

 

人間的な経験を考えたらもっとわかるかも知れません。もし彼は付き合っている彼女のことが本気に好きになったところで、彼女は好きになってもらったことを嬉しく思いながら、それに甘えるだけで彼のことが好きにならなければ、どうなるでしょうか。彼の片思いの苦しみになるのではないでしょうか。

 

要は「神は愛です」という嬉しい知らせを受けた私たちには、その愛に甘えるか応えるかという問いかけがあります。

 

私たちが心から主なる神の愛に応えないのは罪の結果です。だから、自分の罪を見つめて、その罪を悲しんで、その罪を主に告白して赦しを求めることは、その愛に応えることになります。実は、主は私たちにご自分の愛をもっと豊かに注ごうとして待っておられます。しかし主が待っておられるところは、私たちの罪の向こうです。だから私たちは、暗い、重たい気持ちになっても罪を見つめて回心すれば、罪の赦しによって私たちの罪の向こうで主に新たに出会って、主とのもっと深い愛の関係に入ります。