年間第30主日 2020年10月25日

先に下記リンク先の聖書箇所を読み、黙想してから動画をご視聴いただくことをお勧めします。

 

朗読箇所のテキスト(日ごとの福音)

 

第1朗読 出エジプト記 22章20~26節

第2朗読 テサロニケの信徒への手紙一 1章5c~10節

福音朗読 マタイによる福音書 22章34~40節

 

お話の要約

皆さん、こんにちは。

今日の福音は、とても有名な箇所で、よく知られていると思います。キリストの愛の掟。主なる神を愛しなさい。隣人を愛しなさい。でも、これほど有名な箇所を読むときは、特別な注意が必要だと思うのです。というのは、このように有名な箇所は、それを聞けば「ああ、あの話だ」と思ってしまって、もうわかっているつもりで、それ以上あまり聞こうとしない傾向があります。そうなると、もっと深い意味がわからないわけです。聖書は聖霊の働きで書かれたものとして奥深いものです。だから、いくらでもわかっても、さらに発見する余地がいつまでもあるのです。今日の箇所をもうちょっと注意深く読んだら、新しいことに気づくと思うのです。

たとえば、最後の箇所でキリストが言う「律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている」。「律法全体と預言者」は、旧約聖書のことを言っています。よくあることですが、旧約聖書の神は厳しくて怖い神、新約聖書の神はやさしくて愛する神だと思うひとは少なくないと思います。でも、ここでキリストが言っているのは、この愛の掟はご自分自身の教えの中心だけではなく、旧約聖書全体の中心です。律法全体のあらゆる掟、こまかくいろいろ定められたことなど、そして預言者たちの時にはやさしい言葉、時には警告・厳しい言葉、全部ひとがこの愛の掟を守ることを目指しています。その頂点です。もちろんキリストもそのために来られたのです。そのために十字架にかけられて、命を捧げて、復活して天に昇られたのです。そして、聖霊もそのために遣わしたのです。それはひとつの大事なところですが、ひとつまた注意して読めば、同じように愛しなさいと言うのですが、その愛する仕方は違うのです。

 

たとえば、隣人を愛しなさいと言う場合は、「自分のように愛しなさい」。でも、主なる神を愛しなさいと言う場合は、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして」、マルコとルカは「力を尽くして」も付け加えるのですが、「あなたの神である主を愛しなさい」。人間の全身全霊をあげて、主なる神を愛しなさいと。それを隣人に関しては、そこまで言わないのです。

なぜかというと、やはり人間との関係と、主なる神との関係は違うのです。主なる神は私たちの創り主です。私たちは創られたものです。それもひとつ大事なポイントです。というのは、困ったときの神頼みという表現があらわしているように、人間はなんとなく、主なる神は自分のためにいる存在のように思いがちです。でも、実は、私たちは主なる神のためにいるものです。主なる神は、ご自分が定めた目的のために私たちを創られたのです。そして、私たちは、人間が創られたその目的に達するときこそ、本当の喜び・幸福を感じます。それは人間自身全体の完成、人間として完成するときの喜び、喜びの現れです。人間が心を尽くして、精神を尽くして、思いを尽くして、力を尽くして、主なる神を愛するときこそ最高の喜びです。

 

それが完全に実現するときは、やはり、天国です。それこそ天国の喜び、天国のこの上ない幸福です。神を愛して、神に愛されること。そして自分の心を満たしている神の愛をもって、ほかのひとも愛するのです。天国にいるすべてのひとは愛し合っているのです。聖人のまじわりです。私たちも煉獄のひとたちも愛しています。聖人たちも。それこそ人間のほんとうの幸福です。人間の目指すべきところです。その意味では、キリストのふたつの掟、愛の掟が中心に教えているところは、ただの理想ではないのです。それをとおして、自分の究極の目的、一番目指すべきところ、つまり、私たちが天国にはいる準備をするために道を示してくださる道標です。そして、その道をこの世において歩めば歩むほど、この地上の生活の中で、この特別の天国の喜びを前もって味わいはじめるのです。天国にくらべてほんの少しですが、これこそほんとうの信仰の喜びです。信仰の喜びというのは、人間が神さまを全身全霊をあげて愛して、ひとびとを愛して、ひとびとが愛し合うときの、愛の喜びです。