聖母の被昇天 野外ミサ 2020年8月14日

朗読箇所のテキスト(日ごとの福音)

 

第1朗読 ヨハネの黙示録 11章19a、12章1~6、10ab節

第2朗読 コリントの信徒への手紙一 15章20~27a節

福音朗読 ルカによる福音書 1章39~56節

 

お話の要約

ここで、聖母マリアは感謝の賛歌を捧げます。預言にもあるとおり、「今から後、いつの世の人も私を幸いな者と言うでしょう」と。実際にはそのとおりになりました。今晩このミサに与っている方々も、聖母マリアを幸いな方と讃えて集まっています。

 

幸いとは恵みであり、特別なもの。教会は三つのことを考える。一つ目は「原罪なしの御宿り」。私たち大船教会の守護の聖人である聖アンナのご胎内で起こった御宿り、神秘的な聖母マリアの人生最初の瞬間からの恵み。二つ目は、「キリストの母、神の母として選ばれた」恵み。その受肉の神秘は、聖母マリアのご胎内で起こった偉大な神秘である。そしてそれを成就した頂点と言えるのが、三つ目の恵み、今日祝っている「被昇天」で、マリアは教会の中で真っ先にわが子イエズスの復活に与らせていただいた。この三つの恵みは非常に偉大なもの、教会の中で聖母マリアだけが戴いた恵みである。

 

でもそれは聖母マリアが何かをしたからということではなく、マリアはそれをはっきり意識して主を賛美している。「私の魂は主をあがめ、私の霊は救い主である神を喜びたたえます。身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださったからです。力ある方が、私に偉大なことをなさいましたから。」考えてみれば「原罪なしの御宿り」は、その前に聖母マリアも存在しなかったから、その恵みを受けるには、何をすることもできなかった。「御子イエズスの母、神の母になる」というのは、人間が何かをしたからそうなれるというものではない。今日の「被昇天」も同じ。

 

また、聖書を読んだら、一つの大事な原則に気づくと思う。神様は恵みを与える時は、与えられる本人のためにもなるが、必ずその他の人のためにもなるようにされる。ある特定の人だけに恵みを与えることはあまりないと思う。神様は一人だけではなく、全部を見ておられるから。そして、その恵みが大きければ大きいほど、もっと多くの人のための恵みになる。その中では聖母マリアは特別。教会の中で聖母マリアだけが戴いたこの恵みは、何よりも偉大な恵みを戴いたから、誰よりも多くの人のために恵みを戴いた。だから教会は、今でも聖母マリアを母として仰いで、そのとりなしを願っている。そして、聖母マリアはそういう恵みを戴いたから、天国ではあまりゆっくりできないと思う。まあ私も天国の様子は分からないけれど、確かに聖母マリアは世の終わりまで私たちのために祈って助けてくださる。ここにいる私たちのためだけではなく、全人類の救いのために、世の終わりまで聖母マリアの役目はまだまだ終わっていない。

 

そして、この救われることは、今日の祝いにも示される。私たちは最後に主の恵みによって復活して永遠の命に入るために歩んでいるわけで、もちろんその元はイエズスご自身の復活であり、そこから私たちの力の源が来る。でも、その希望を強くするために、聖母マリアを通しても示されている。真っ先に主の復活に与った方として、私たちの復活に対する希望を更に固いものにしてくださる。だから教会は、聖母マリアの内に教会全体の将来の姿をも見ている。私たちは誰一人、聖母マリアほどの格別な恵みを戴かないが、私たちなりに聖母マリアと同じ栄光に与るよう招かれている。復活と永遠の命、永遠の幸せに呼ばれている。

今の信仰の旅の途中で、マリア様はそれを示して力になってくださる。

 

教会はまた、聖母マリアを「海の星」と表現しています。船乗りは航海の途上で、どの方角に行ったらいいか星を見て、その星によって行く先を知りました。聖母マリアも同じように、天国に行く道しるべとして私たちに行く先を示すだけではなく、祈りをもって私たちがその道を歩み続けることができるように助けてくださいます。その意味からも、私たちは神が聖母マリアに与えた恵みのために神を賛美し、それと同時に感謝しましょう。聖母マリアのためだけではなく、その恵みは私たちのためにもなり、力にもなるからです。