年間第16主日 2020年7月19日

先に下記リンク先の聖書箇所を読み、黙想してから動画をご視聴いただくことをお勧めします。

 

朗読箇所のテキスト(日ごとの福音)

 

第1朗読 知恵の書 12章13、16~19節

第2朗読 ローマの信徒への手紙 8章26~27節

福音朗読 マタイによる福音書 13章24~30節

 

 

<お話の要約>

みなさん、こんにちは。今週の福音は、先週の続き、もう一つの天の国についてのたとえ話です。今、私たちの読んでいるマタイ13章には、キリストの色々な天の国のたとえ話が集められていますが、今回のたとえ話は良い麦と毒麦の話です。そこでは、キリストが人の態度に応えているたとえ話だと考えたらいいと思います。

その態度といえば、当時は特にファリザイ派に表れている。福音書によく出て来るが、ファリザイという名前自体は「抜き出された」という意味。一般のイスラエル人から、特別に清いものとして抜き出されたという意味合い。ファリザイ派は主の到来に向けて、自分たちのように熱心に主の掟を守るべきだと説いた。そういうような態度は、たとえば今日でも見られる。清い心や綺麗なことに憧れて教会を訪ねた人々が、教会に通い出してしばらくすると、信者の中の清くない心、罪や欠点に気付いてがっかりする。キリストの教えはすばらしいから、そのキリストを信じて洗礼を受ける人は皆、聖人のようになるはずだと思ったのに…。信者の間でも、互いに対する批判は確かにあると思う。その批判は必ずしも間違っているとは言えないと思うが、教会は聖人ばかりの集まりではない。

 

キリスト御自身は、その態度に対して、むしろ反対のことを教えた。実際のご自分の行動の中でも、住民の中で徴税人などの罪びとと思われていた人々と付き合って、ファリザイ派の反感を買った。キリストは、皆がすぐに清くなれとは言われない。むしろこのたとえ話の主人のように、「刈り入れの時まで、両方とも育つままにしておきなさい」と言われる。主は、ご自分の教会に聖人ばかりいるわけではないことはよくご承知で、忍耐しておられる。最後には分けられるのだけれど、今は分けるにはまだ早い。主の裁きを待つべきであり、先走って裁いてはいけないと聖パウロも注意している。そのことの意味を深めることは大事だが、確かに両方育つに任せることは主の忍耐を表している。私たちは互いを非難したくなる時に、そのことを思い出すべきである。主は忍耐をもって私たちを見ておられるので、私たちも互いに忍耐すべきであると聖パウロも強調している。

 

私たちは主と違って、相手の心を見抜く力はない。昔聞いた話を思い出すのだけれど、ある人が病気でお医者さんに通っていた時、毎回受付で嫌な思いをしていた。その人の嫌な言葉や冷たい態度が、とても不愉快だった。ただ、そのお医者さんはとても良い人だったので、忍耐して通っていた。ある日その病院に行ったら、受付のその人がいない。聞いてみると、その人は亡くなったと。実は、癌と闘いながら勤めていたことが分かった。それを聞いたとき、その人の気持ちはいっぺんに変わった。嫌な人だという怒りも消えて、かわいそうに…そういう苦しみ、悩みがあったから、ああいう態度をとっていたんだと。私たちが相手と出会う時、その人がどんな悩み、苦しみを抱えているか、私たちにはわからない。だから、なおさら忍耐して、むしろその人のために祈るべきだと思う。

 

また、もう一つ考えるべきことは、主は私たちのことも忍耐しておられる。誰が、自分が生まれた時から全く清い生活を送って来たと言えるか。主がそんなに長い間私たちのことを寛容に忍耐しておられたなら、私たちも他の人のことを忍耐すべきではないか。それに加えて、主への畏れを心に抱いた方がいいと思う。キリストは教えられる。「あなたは自分が量った量りで量られる」と。もし主が、私たちが相手を裁く時に使っている同じ基準で私を裁いたら、私はどうなるか考えるべきだと思う。やはり主の前で、全く正しい人は誰もいない。そういうことがあるからこそ、主は寛大に忍耐をもって、悪人と善人、清い人と清くない人とを一緒にそのままにしておかれ、最後に分ける。最後に分ける時は、主が決めるとき。主がご存知の一番正しいとき。その時まで主は時間を与える。その時間は、結局人が回心するための時間。今日の第一朗読の知恵の書では、主の慈悲とか寛容について話されて、「あなたはこういう業を通して御民に教えられた。こうして御民に希望を抱かせ、罪からの回心をお与えになった」と書かれている。

 

私たちの大船教会共同体も決して完璧な共同体ではないし、今後もそうはならないと思う。それでも私たちは主の忍耐にあって互いのことを忍耐し合って、主の救いを必要としている者どうしとして一緒に主を求めていくと、主は私たちが成長するように助けて下さいます。この世においては完璧になれないとしても、私たちもいくらか主に近づいて、もっと主の愛のうちに生きるようになって、今、聖アンナの取り次ぎを祈っているところですけれど、その主の愛をもっと力強く終わりの日に証しすることが出来るように、そういう恵みをいただきます。