年間第15主日 2020年7月12日

先に下記リンク先の聖書箇所を読み、黙想してから動画をご視聴いただくことをお勧めします。

 

朗読箇所のテキスト(日ごとの福音)

 

第1朗読 イザヤ書 55章10~11節

第2朗読 ローマの信徒への手紙 8章18~23節

福音朗読 マタイによる福音書 13章1~23節

 

 

<お話の要約>

みなさん、こんにちは。今回の福音は、イエスの種まきのたとえ話です。イエスは福音書の中で、よくたとえ話で教えておられます。そのこと自体は、意味があると思います。というのは、イエスは誰よりも偉大な方、神の子であるのに、決して当時の偉い人たちに向かって演説するような教え方はなさいませんでした。むしろ、貧しい人、無学な人に向かって、具体的な日常的なイメージを使って、たとえ話を使って教えられたのです。

私がわりによく耳にするのは、自分の信仰が足りないから、勉強不足だから学ばなければと言うこと。今は学歴偏重の社会だから勉強が先に来るのだと思うが、勉強の仕方は知識中心だったら物足りない。キリストの教え方自体から学ぶべきで、そのキリストは決して知識のレベルではなくて、人の心に語りかけられた。もっと具体的なこと、日常的なことからたとえを話して、それを通して教えを伝えられた。勉強会は悪くないけれど、心に沁みるようなものでなければ、信仰のためには役立たないのではないかと思う。

 

このたとえ話を理解するためには、一つの大事なポイントがある。その話を論理に従って考える必要もあるが、たとえ話だから、理屈で分析しようと思えば的外れになる。今回のたとえ話で注目すべきなのは最後のところで、「良い土地に落ちた種は実を結んで、あるものは100倍、あるものは60倍、あるものは30倍にもなる。」聖書学者によると、当時の農民は収穫が10倍~12倍になったら、それは本当に喜ばしい、ありがたいことだった。それだったら、30倍、60倍、100倍は驚くほどの多さ、信じがたいほどの豊作ということになる。話の論理からすると、そういう誇張されたところ、大げさに言われるところは、聴く人の注意を引きつけ、話のポイントもそこにある。前の話の流れから考えると、キリストの福音宣教にはいろいろな妨げがあった。種も色々な所に行ってしまったとあるように、道に落ちたり、石だらけの土地に落ちたり、いばらの間に落ちたりした。色々な妨げや実らないことがそれだけあったのに、最終的に驚くほどの豊作になった。それはやはり、神のみ言葉の力がそこに表れているということ。

 

イエス自身は反対されたところもあったけれど、このたとえを通して確信を表された。ご自分は神のみことばを伝える、いくら反対されても妨げられても阻まれても‼最終的に、神のみ言葉は人が想像もつかないような実りをもたらす。これはやはり今回の第一朗読にも通じるところ。イザヤの預言では、「神は、ご自分の言葉は空しくは戻らない。必ず望むことを成し遂げ、使命を果たす」と言われている。そういう神のみ言葉の力。創造の時の神は「光あれ」と言われてそのようになった。神のみ言葉には凄い力がある。それは、私たちへの一つの教訓でもある。神のみことばを信じること、そのために私もよく聖書のことを話している。聖書は聖霊の働きかけで、図らずも神のみ言葉の力がそこに潜んでいる。聖書はある意味で、聖霊を息吹く文章である。

 

先ほどの種まきのたとえの先にはイエスの説明が載っているが、妨げになる経験は、初代教会から今日に至るまでの経験だと思う。道に落ちた種とは、福音を聞いても無関心、知ろうとしない態度の人。石畳の上に落ちた種とは、よく見られるように、福音を聞いたら感動して凄く気持ちが燃え上がるけれど、根がないので暫くしたら燃え尽きたような感じになる人。結局、感情に基づいた信仰は長持ちしない。信仰は、自由意志に根を降ろさなければ実ることができない。いばらの中に落ちた種とは、キリストを信じてはいるが他のことも大事にしている人。心の中で両方大事にしているうちに、キリストのことは疎かになる。キリストが他のところでも言っているように、キリストには何ものも優先させてはならない。むしろキリストのことを優先させる。他の日常的な必要には、神様が恵みを与えて下さる。そう約束してくださる。

 

今日のこのたとえ話には、私たちに与えられた教訓があったと思います。まず、神のみ言葉に対する信頼、信仰。どれほど神様のみ言葉の力を信じているかということ。もう一つは、自分の心はどんな状態であるか。み言葉に対してどこまで良い土になっているか。まだなっていないなら、どうやってもっと良い土になるかということ。み言葉が、それを受け入れる良い土のようなものだとしたら、確かに、驚くほどの恵みが与えられて、その人もどんどん成長していきます。そのもたらす実も驚くほどの、しかもそれは永遠の命に至るまでの実りなのです。