年間第14主日 2020年7月5日

先に下記リンク先の聖書箇所を読み、黙想してから動画をご視聴いただくことをお勧めします。

 

朗読箇所のテキスト(日ごとの福音)

 

第1朗読 ゼカリヤ書 9章9~10節

第2朗読 ローマの信徒への手紙 8章9、11~13節

福音朗読 マタイによる福音書 11章25~30節

 

<お話の要約>

みなさん、こんにちは。前回も言ったように、福音書でキリストの言葉を読んだら、驚くほど厳しい言葉もあれば、驚くほど優しい言葉もあります。前の二回の日曜日は厳しい方の言葉でしたが、今回はむしろ優しい方の言葉です。キリストは神の国を幼子のような者に示されているし、ご自分は柔和で謙遜な者だから、ご自分に学んで安らぎを得るようにという優しい言葉をかけています。

けれど、優しい言葉の中には厳しさもあると思う。厳しい言葉の中に優しい言葉もあるように。今回は特に、「幼子のような者」とはどういう者か考えたい。「聖書と典礼」には、その説明、注釈がある。「幼子は無知で無力な者を表す。ファリザイ派や律法学者が、律法を知らない者として軽蔑して言った民衆を指す。」実はヨハネによる福音では、そういう態度を表している場面が伝えられている。祭司長たちやファリザイ派の人々は、下役たちが戻ってきた時、「どうしてあの男を連れて来なかったのか」と言う。下役たちは、「今まで、あの人のように話す人はいませんでした」と答える。するとファリザイ派の人々は言った。「おまえたちまで惑わされたのか。議員やファリザイ派の人々の中に、あの男を信じた者がいるだろうか。だが、律法を知らないこの群衆は、呪われている。」なぜ呪われているのかと言うと、そのファリザイ派の人々の信念としては、モーセの律法をすべて厳格に守らなければ、神様の前で正しい者と認められない。ところが、民衆、一般庶民のほとんどは貧しい人で、かろうじて生計を立て、その日暮らしの生活を強いられている人が多くいた。その人たちは、モーセの律法を勉強したり研修したりする余裕がなかった。生活に余裕がないから、どうしても掟を細かく守ることは無理だった。ファリザイ派の人々から見れば、そこまでできない人は神様の前で正しい者と認められない、むしろ呪われている。

 

それに対してキリストは、反対のことを言っている。というのは、ファリザイ派の人々がどうしてイエスを信じないかというと、自分たちは神様のことを分かっているつもりで、イエスを神からの者ではないと、自分たちの知識に頼って判断していたわけである。でも、キリストはむしろ別のことを言っている。「御父は、知恵ある者、賢い者(ファリザイ派の人々は自分たちのことをそう思っていた)に天の国のことを隠しておられる。むしろ、幼子のような者にお示しになった。」モーセの律法に詳しい律法学者たちがキリストを信じないのは、神様が隠しておられるから。民衆は何もわからないから信じているのではなくて、神様のご計画によって、そういう人たちにこそご自分のことを教えておられる。なぜかと言うと、知恵とか賢いと自負する心は、神様の前でへりくだらない。後の言葉にもあるように、「キリストは柔和で謙遜な者だから、そういう心でなければ神様からのメッセージを受け入れない。どうしても人間の思いで判断してしまうから、神様からのメッセージを拒絶する。それは人間の心の働きによる。

 

このことは、私たちにも当てはまるような気がする。今、私たちの住んでいる社会は、いわゆる学歴偏重の世界。学歴、知識人、東大を出た人は凄く尊重されて、社会的にも高い地位に着ける。人間の世界では知識があることはそれほど良いことだが、神様に関する世界では、むしろ妨げになることが多い。それは福音宣教においても感じていること。特に男性の傾向として、キリストのことを聞いても先に理屈が来る。理屈で捉えようとすると、どうしても信じられない。人間の思いで神様のことを計ろうとすると、合わない、受け入れられないことになってしまう。

 

教会の中でも気をつけるべきところがある。たとえば、学歴偏重の世界に住んでいる私たちは、自然に教会の中にもそういう空気を持ち込む。例えば今、信者養成とか生涯養成とかよく言われているが、一般社会も教会の内部も同じ。確かに大事なことではあるが、ただ、どういう要請をするか注意する必要がある。と言うのは、生涯養成を目的として勉強会をよく開くが、その勉強会が知識中心になったら、本当にどこまで役に立つか…。考えさせられるところ。聖パウロもそのことについて言っている。「知識は人を高ぶらせるが、愛は創り上げる。自分が何か知っていると思う人がいたら、その人は知らねばならないことをまだ知らないのです。しかし、神を愛する人がいれば、その人は神に知られているのです。」聖パウロは、知識に反対なのではない。教会は歴史の中で特に大事な教えを残した人を教会博士と呼んで、今も教会の中で尊重しその教えを大事にしているが、教会博士と言われるには、もう一つのある重要な条件がある。その人は優れた知恵と知識を持っているだけでなく、聖人でなければならない。神様に深く結ばれている人、神を愛する人、隣人を愛する人でなければならない。

 

教会は弟子の教えを受けとめていますが、知識だけでは足りない、心が入らなければなりません。愛に基づいた知識、愛が動機になって、愛するために知ろうとする心です。私たちが聖書を読むときに、注意すべきところだと思います。知識を得るために聖書を読むのは、的外れ。聖書を読む目的は、神の言葉を受け入れるため。新しいことを学ぶというより、「あ、これは私のことを言っているんだ!」と、そういう聖書との出会い、心に響くところ、神様のことが私たちの心に伝わること、それが本当の聖書を読む目的です。知識に留まらず、本当に私たちの信仰を養ってくれる聖書の言葉、それは本当の意味の信仰の歩み、信仰の生涯養成になります。