年間第13主日 2020年6月28日

先に下記リンク先の聖書箇所を読み、黙想してから動画をご視聴いただくことをお勧めします。

 

朗読箇所のテキスト(日ごとの福音)

 

第1朗読 列王記下 4章8~11、14~16a節

第2朗読 ローマの信徒への手紙 6章3~4、8~11節

福音朗読 マタイによる福音書 10章37~42節

 

<お話の要約>

先週も話したように、キリストの言葉には、驚くほど優しく暖かい愛に満ちた言葉がある反面、驚くほど厳しい言葉もあります。今回の福音書は、先週に続いてその一例だと思います。ここでキリストは、要求を極めたような気がします。父、母、息子、娘より、ご自分を愛するように。自分の十字架を背負って、ご自分に着いて来るように。そして最後に、ご自分のために命を失うように。それは本当にすごい要求です。

でも、その要求の意味を掘り下げると、自然なレベルで考えても分かるようなところもある。例えば子育ての場合は、人にもよるけれど、子育ての苦労より子離れの苦労の方が大きいことがある。一生懸命力を尽くして子育てしても、やがて子どもが大きくなって親元を離れると、それが全部無くなるというか、自分がもう必要とされなくなった気持ちになって辛い思いをする方もいらっしゃると思う。だからといって子どもを引き留めて、親離れさせないようにすることは子どものためによくないし、親子の関係を悪くする。その意味からも、命を得ようとする者はそれを失う。親子の関係を昔のように保とうとすると、それを失ってしまう。普通の人間関係においても、人間を中心に愛するときは、どうしても自分のことが入ってしまうおそれがある。どこまで本当に相手のためにしているか、どこまで自分のためにしているか、曖昧なところがでてくる。でも、そういう父、母、息子、娘よりキリストを愛する場合は、違う。キリストの愛はもっと大きい。キリストの愛に支えられて、人のための犠牲がもっとできるようになる。自分が必要とされなくなった辛さを、キリストの愛に支えられて、犠牲に変えることもできるようになる。

 

十字架を担って着いて行くことに関しても、同じようなことが言えると思う。特に注目すべきことは、十字架を担って行こうという要求は、もうすでに十字架を担って歩んでおられるキリストに着いて行くということ。キリストは先に十字架を担っている。それも一つ、心に留めるべきことだと思う。キリストの要求が厳しいと言っても、実際にキリストはそれよりも大きく厳しい辛いことを先におこなっておられる。キリストはご自分がしていないことを私たちに要求しているのではなくて、むしろ、私たちとは比べものにならないくらいの苦しみを先に担っておられる。

 

もうひとつは、この歩みの行き先。確かにキリスト者としての信仰の歩みは、キリストに着いて行く歩みに他ならない。キリストに着いて行くなら、キリストの歩まれた道の他に道はない。それだったら、十字架に向かう道、十字架を通して復活の栄光に至る道でもある。その意味では、キリストは要求と同時に約束もしてくださる。ご自分に着いて来る人に、ご自分と同じ報いを与えてくださる。この復活の栄光については、聖パウロが断言している。「現在私たちが経験している苦しみは、将来私たちの内に現れる栄光に比べれば、取るに足りないものだと私は思っています。」

 

いくら要求が厳しいと言っても、その先のことは比較にならないほど大きく素晴らしく、しかも永遠です。キリストが命を失うと言うとき、それはこの世に於いて話している。この世に於いてご自分のために命を失う者は、それを得る。しかも、永遠に。終わりない命と喜び、幸せ。その意味ではやはり、キリストの厳しい言葉、凄い要求の奥に、さらに大きな温かい愛、喜び、優しさが見られる。それを私たちは心に留めるべきだと思います。人間だったら、どうしても苦しい時はそれが中心になる。苦しみに対して、何とかして助けてくださいと主に願う。でも、キリストが教えているのは忍耐。その目的、行き先を目指して、キリストに全てを賭けて歩み続けることです。この世に於いては、利益とか儲けのために賭けている人もいる。でも、それはあくまでもこの世における何か良いもののため。キリスト者としては、それより比較にならない喜びのために賭ける。キリストに賭けるのです。すべてをキリストに賭けて、何があってもただキリストの背中を見つめて、自分の十字架を担って、ひたすら着いて行く。希望を持って、約束を信じて…。