年間第12主日 2020年6月21日

先に下記リンク先の聖書箇所を読み、黙想してから動画をご視聴いただくことをお勧めします。

 

朗読箇所のテキスト(日ごとの福音)

 

第1朗読 エレミヤ書 20章10~13節

第2朗読 ローマの信徒への手紙 5章12~15節

福音朗読 マタイによる福音書 10章26~33節

 

<お話の要約>

皆さん、こんにちは。キリストの言葉を読んだら、両極端ある気がします。驚くほど優しい言葉、愛と慈しみ、憐れみに満ちた言葉がたくさんあると同時に、驚くほど難しい、厳しい言葉もあります。それはなぜかと言うと、キリストは私たちの成長を望んでおられるからです。

普通3歳の子どもが甘えてくると、親は可愛い子供として一生懸命世話をして育てます。でも、もしその子どもが10歳になっても3歳の時と同じ甘え方をするなら、親はがっかりするでしょう。親はその子を愛していないわけではなくて、愛すればこそ子どもの成長を望んでいるのです。そのために躾(しつけ)をし、色々教えて努力しています。キリストも同じように、私たちへの愛を強調しています。そこから全てが始まります。でも、私たちに全く受け身になって甘えん坊になってほしくない。そのために、挑戦するようにと厳しい言葉を与えます。

 

今回の福音はその一つの例。キリストは私たちに、「勇気を出しなさい」と教えている。勇気を出すことも人間には難しい時もある。色々な恐れもある。今回の箇所の少し前に、キリストは人々が自分の弟子たちの悪口を言うことを予告している。それも恐れてはならないと言う。または、人の前で自分がキリスト者の仲間であることを言い表すように、勇気を出しなさいと言っている。日本の社会においても、今、勇気を出すときではないかと思う。「社交的隠れキリシタン」という言葉を作ってみたが、そういう現象があるような気がしている。あるキリスト者は社交的で友人も多いが、関わっている人は誰もその人がキリスト者であると分からない。ごまかしているわけではないが、言い表すことをためらっているか、相手がキリスト教に興味を持って、自分には答えられないような質問をしてくるとか、そういう不安や怖れがあるので、キリスト者であると分からないようにして関わっているのかもしれない。

 

もちろん、その場の話題や雰囲気を全然考えないで、私はキリスト者だと唐突に言い出すのはまずいと思うが、普通の関わりの中で自然にその機会があると思う。日曜日の朝、友人に一緒に出掛けようと誘われたら、「日曜日はミサに参加するので、午後ならどうでしょう」とか答えると、何気なく自分がキリスト者であると匂わすことになる。そのあと何か反応があれば、勇気を出してそれに対応することは、一つの成長の機会になると思う。

 

今回の福音書の中でたぶん一番厳しい言葉は、「体は殺しても魂を殺せない人を恐れるな。むしろ体も心も滅ぼすことのできる方を恐れなさい」。その方とは神様のことだけれど、結局私たちは死後神様の前に出て、自分の人生についてその責任を問われる。自分の人生をどう生きてきたかについて、申し述べることになる。それは心に留めるべきことで、人生を無駄にしないように意識することは、この神様を畏れることになる。聖書によると、「神様を畏れることは、知恵の始まり」と。たぶん私たちの場合は、そこまではいかないだろうと想像する。やはり段階的に。平和なこの日本において、些細なことで何気なく自分がキリスト者だと言い表さない人は、迫害があったら多分だめだと思う。

 

いずれにしても、「勇気を出すこと」は信仰の歩みの大事な要素。子どもの成長にも見られるのだが、幼稚園でも、子どもは成長したい、やってみたい気持ちの反面、たとえば遊具に登るときなどには勇気がいる。もちろん無理矢理にはさせないけれど、先生たちの励ましを受けてできたら達成感を覚え、それが喜びになる。それも私たちの信仰生活に当てはまるところ。キリストの厳しい言葉を受けたら、自分が完全にできないとしても、一歩でも二歩でも勇気を出すと、それなりの成長もあるし、それなりの喜びもある。

 

キリストは普通の親とは違います。普通の親も一生懸命子どもを育てるけれど、子ども自身の育つ力は生まれつき備わっているのです。育つ力は親が与えるのではありません。キリストは成長する力を与えてくださり、その力の名は「聖霊」といいます。その力を、わたしたちはキリストから戴くのです。ただ、私たち自身にも成長しよう、キリストに着いて行こうという思いがなければ、キリストはそこまでの力を与えません。自分に賭けて、信頼して、挑戦する人に、主は力を与え助けてくださるのです。そのようにして、少しずつ、少しずつ次の挑戦に導いて、私たちが信仰の歩みを続けて成長するようにと、キリストは私たちをずっと、栄光を受けるまで導いてくださるのです。