「お誕生日、おめでとうございます!」

今回のタイトルは、5月末頃に誕生日を迎える方へのお祝いメッセージではありません。教会は長い伝統によって聖霊降臨を教会全体の誕生日と呼んでいます。(聖霊降臨の集会祈願と叙唱を参照)その時までキリストの弟子はキリストご自身について来た人に限られていましたが、聖霊を受けた使徒たちは力強くキリストを宣べ伝えて、信じるようになった人々に洗礼を授けて、教会の仲間に加えられました。日本語でも「誕生」という言葉は比喩的な意味にも使われていますが、教会は聖霊降臨を境に社会的な存在になって、団体として機能するようになって自ら成長して発展するようになりました。

 

 

キリストご自身は弟子たちに「全世界に行って、全ての者に福音を述べ伝えなさい」と命じましたが、それは聖霊が彼らの上に降ってからのことだとはっきり言われました。罪の赦し、新しい命、神の子としての身分、永遠の命を受け継ぐ資格など、あらゆる恵みの源はキリストの受難と復活です。ただし、聖霊なしでは、私たちはその満ち溢れる恵みから何も頂けません。聖霊が私たちをキリストの恵みに与らせて、キリストの恵みが実際に私たちのうちに働くようにして下さいます。キリストは例えを話されてご自分がぶどうの木、弟子たちはその枝であり、枝がぶどうの木から離れると枯れるばかりであるように、弟子たちはご自分を離れては何もできないと断言されました。(ヨハネ15章1節~10節を参照)このイメージから考えると、聖霊はぶどうの木であるキリストから、枝である私たちに流れてくる樹液みたいな存在です。枝は実を結びますが、そうしているのは目に触れない樹液の力によるのです。同じようにキリスト者は信仰の業を行っていますが、そうしているのは目に触れない聖霊の力によるのです。

 

信仰生活がそうであるなら、福音宣教は尚更のことです。普段の生活の中では信仰に生きることが精一杯で福音宣教なんか無理だと感じるキリスト者は少なくないと思います。「どうしたらいいか」と信徒に聞かれたら私はもう一つの例えを話します。アメリカの大平原(グレートプレーンス)を開拓した人たちは、そこは雨が少ない乾燥地帯だったから限られた農産物しか取れませんでした。しかし、地下の帯水層を発見して利用するようになったら、様々な作物を栽培するようになりました。それは私たちキリスト者のイメージです。大平原の農業が、潜んでいた水を発見して利用するようになったら盛んになったように、キリスト者も自分の心に潜んでいる聖霊の力を発見して解放すれば、もっと豊かに実を結ぶようになります。だからこの日本においても福音宣教をしたいと望むなら、絶えず「聖霊、来て下さい」と心から祈ることがその第一歩です。