主の昇天 2020年5月24日

先に下記リンク先の聖書箇所を読み、黙想してから動画をご視聴いただくことをお勧めします。

 

朗読箇所のテキスト(日ごとの福音)

 

第1朗読 使徒言行録 1章1~11節

第2朗読 エフェソの信徒への手紙 1章17~23節

福音朗読 マタイによる福音書 28章16~20節

 

<お話の要約>

みなさん、こんにちは。いつものことですが、まだ聖書の箇所を読んでない方がおられるなら、一端止めて読んでから戻ってください。

 

 

今度の日曜日、教会は主の昇天を祝う。聖書が伝えているように、キリストは復活されてから40日間弟子たちに現れて、ご自分が生きている証拠を与えてくださった。その後は天に昇られて、目に見える形では一緒にいないで、むしろ聖霊に於いて霊的な意味で、心の中で主に会えることになった。時々私は、キリストが体を持って復活されたから、そのままずっと一緒にいられたらよかったんじゃないかと思うこともあるが、実際にはそうではない。なぜかと言うと、色々考え勉強して分かったことだが、主の昇天、目に見える形ではなく信仰に於いて心の中におられるのは、私たちのためになる。キリストはそのように聖書で言われている。

 

一つには、私たちの信仰が深くなるため。信仰は、目に見えないことを信じること。その意味では、目に見えるキリストを信じるよりも、目に見えないキリストを信じる方が、もっと純粋な深い信仰になる。キリスト自身を疑ったトマスに言われたように、「私を見たから信じたのか?見ないで信じる者は幸いである。」もっと深い信仰を、神様は豊かに祝福してくださる。もう一つには、私たちの希望を強くするため。キリストが弟子たちに言われたように、先に行って御父のところに場所を用意してから、戻って来て私たちを自分のもとに迎えると約束された。それは、私たちの希望をもっと強くすることになる。

 

キリストが受難によって罪を償い、復活に於いて新しい命を与えた。私たちが神の子として戴く恵みを与えてくださった。そして、昇天によって天国に行く道を開いてくださった。キリストがそうして天国に昇って行かれなかったら、私たちも天国に行くことはできなかっただろう。そしてそれは、私たちの愛を強くするためにもなった。弟子たちはキリストを信じ愛していたから、キリストが離れていくことを悲しんだが、キリストは先に行くことによって、私たちの目をそちらの方向に惹きつけた。私たちの愛はキリストに着いて行って、天国に向くようになる。聖パウロが言うように、「上にあるものに心を向けなさい。そこでキリストは神の右の座に着いておられる。そこに私たちの希望がある。」

 

日曜日の第二朗読にも、「神が与えてくださる希望は、どれほど豊かな栄光に輝いているものか。神様の力を悟るように。」それは、昇天を通して主が与えてくださる恵み。でも、そこまで恵みを戴くには、信仰と希望と愛が深くなるためにも、どうしても聖霊が必要。聖パウロも断言している通り、「だれも聖霊によらなければ、キリストを主であるとは言えない。」イエスを主だと言うのは、初代教会の一番短い信仰告白。言い換えれば、聖霊の助けがなければ誰もキリストを信じることはできないということ。キリストに希望をかけて、キリストを愛することもできない。聖パウロは別のところでも、「聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれた」と言っている。それも一つの昇天の恵み。キリストが天に昇られたことで、御父のもとから聖霊を遣わすという約束もしてくださった。来週の祝いである聖霊降臨は、その約束の実現です。

 

前回も話したように、私たちも聖母マリアと弟子たちに心を合わせて、特に聖霊が与えられるように、「ノベナ(9日間の祈り)」、前の金曜日から次の土曜日までの間、弟子たちと同じように心を合わせて熱心に祈ったら素晴らしいと思います。聖霊は洗礼と堅信によって与えられるが、聖霊は更に与えられることもある。聖霊には限界がないが、人間にはある。人間は洗礼や堅信の時、自分が受けられるだけの聖霊を受けたが、成長して、もっと受けられるようになる可能性がある。その意味では、聖霊は既に私たちと一緒におられると同時に、更に戴くこともできる。聖霊の光と力は、信仰の歩みを続けるために欠くことができない。

 

信仰の歩みは、確かに聖霊に於ける歩みです。キリストご自身はその歩む道。歩める光と力は聖霊から来ます。今年のテーマは、『共に祈り、共に歩もう』と決めていますが、特にこの9日間の間、一緒に集まって祈ることはできないけれど、それぞれの家で心を合わせて一緒に祈って、聖霊の助け、その光と力を求めましょう。そうすれば聖霊の恵みによって、私たちは兄弟姉妹として、一人一人としても、もっと一緒に歩むことになります。