復活節第3主日 2020年4月26日

先に下記リンク先の聖書箇所を読み、黙想してから動画をご視聴いただくことをお勧めします。

 

朗読箇所のテキスト(日ごとの福音)

 

第1朗読 使徒言行録 2章14、22~33節

第2朗読 ペトロの手紙1 1章17~21節

福音朗読 ルカによる福音書 24章13~35節

 

<お話の要約>

みなさん、こんにちは。こうして、東海林委員長さんのおかげで動画は続きますが、まず第一に日曜日の聖書朗読に時間をとって、祈りながら神様の助け、特に聖霊に来てくださいという祈りを込めて読んで黙想していただきたいと思います。まだ読んでいない方は、ちょっと動画を止めて読んでください。ひととき、その時間を取ります。

 

 

今回の福音書では、エマオに向かう二人の弟子のところにキリストが近づいて一緒に歩いて、二人は最初はイエスだと分からなかったが、後で気づく。この話は教会の理解では、ごミサのことを思い起こさせる。二人が歩きながらイエスが生きておられた頃の話をしていると、キリストはご自分のことについて説明される。特に、モーセとすべての預言者から始めて聖書全体にわたり、ご自分について書かれていることを説明された。その場面はミサの最初の部分を思い起させる。みことばの祭儀といわれるところ。聖書を読んで、それについての話がある。二人は後になってそれがイエスだと分かった時、「道で話しておられる時、また聖書を説明してくださったとき、私たちの心は燃えていたではないか」と言い合う。

 

皆さんは聖書がミサの中で読まれる時、そこまでのことはないと思うが、教会ではこれは「み言葉の食卓」と呼んでいる。み言葉で私たちの信仰を養うという、ご聖体の導入だけではなくてとても重要な意味がある。ただ問題は、そこまで心の栄養になっているかどうか。準備のことだが、この動画の最初に特にその時間を取って祈って、聖霊来てくださいと祈りながら聖書を読むことを勧めた。というのは、人間は聖書の言葉をその場で聞いてもそんなに心に入らないが、前もって読んでおけば、ミサの中で新たに同じ個所を聴いたらもっと心に深く入る。それはみ言葉に対する感覚の違いもあるが、私たちは近代的な教育を受けている者として、どうしても教科書のような本の読み方に慣れている。でも、「み言葉の食卓」とは「養う」ということで、目で見て頭で理解するより、みことばを味わうという感覚の方が大切。栄養になるためには時間がかかる。食事を急いで早く食べれば味もわからないが、聖書に関しても同じこと。ゆっくり思いめぐらして味わいながら読むと、もっと私たちの心と信仰の栄養になる。

 

イエスが泊まろうとして二人に続いて家に入ると、食事の時に主はパンを取り割いてお渡しになった。そこで二人はイエスだと分かった。この動作はキリストの最後の晩餐の時と同じ。使徒言行録を読むと、初代教会でもパンを割くことをミサと呼んでいる。それはご聖体の祭儀、ミサの後半を思い起す。そこでイエスだと気づく。ここでの私たちへの問いかけは、人間は繰り返しているうちに習慣になって、何をしているかあまり深く考えなくなる。習慣としてミサに参加し、習慣として聖書を聴き、習慣としてご聖体をいただくことになりがち。でもこれは、自分が何をしているか、どこまで意識しているかという問いかけ。キリストご自身はご聖体のうちにご自分を与えてくださっている。でも私は、それがイエスだとどこまで気づいているだろうか。

 

一つお薦めしたいことがあります。今は教会委員会で色々話し合って、ミサが再開できるようになった時にどのようにするか色々準備しているが、できるようになってもすぐには安全にならないから、衛生面には十分気をつけながらやりたいと思っている。細かいところの助言を受けながら計画している。もう一つの再開に向けた準備を皆さんにもお願いしたい。ミサに参加できなくなった今は、再開に向けての霊的な準備をしておいていただきたい。新たな気持ちでミサに参加できるように。一つは聖書をもっとよく読むようにすること。特に、動画を見る前に祈りのうちに聖書を読んでそのあと話を聴く。それをずっと続けたら、ミサへの参加はもっと有意義なものになる。

 

ご聖体に対する思いについて、この間の資料の中に霊的聖体拝領の祈りも載せたけれど、特に日曜日は動画を見てからこの祈りの時間を取ってほしい。ご聖体に対する思いを深めて、ご聖体を戴くことのありがたさを新たに意識したら、ミサが再開された時、心を新たにして恵み豊かなミサになると思います。