聖週間ミサのお説教(要約)

2020年4月9日(木)、10日(金)、11日(土)の聖なる三日間のミサでの主任司祭のお説教(要約)を掲載します。

聖木曜日 主の晩餐の夕べのミサ

2020年4月9日(木)

 

昨日は聖香油のミサでしたが、司祭の出席はいつもの1/3ほど。それでも司教様はお話の中で、ミサの大切さを強調されました。ミサがなければ教会は成り立たない、それほど大切なもの。今夜は少人数でもミサを行うことに意味があります。全世界と全教会のために、神の慈しみを願いましょう。

 

このような事態は残念なことだけれど、かえって、ミサとは何か…ご聖体は自分にとってどのようなものか…と考える機会にもなる。その意味では私たちの信仰における試練の時。  先祖を思い起こすと、古代の人々は何度も迫害にあい、そのたびにこっそり集まってミサを捧げた。日本では潜伏キリシタンの時代に、迫害の危険を伴った集まりを続けて信仰を伝え続けた。

 

ここでは聖パウロが言うように、ご聖体が制定される。キリストの御体と御血をいただくものは、個人と共同体として、どんな心で主を迎えるのかが問われている。私たちは何をしているか意識していない。ここでは、キリストご自身を私たちに与えてくださる神秘が示される。福音書には、弟子の足を洗って愛を与え奉仕を教え示したキリストの姿が描かれる。キリストがそこまでご自分を与えてくださったのだから、私たちもそうすべきではないか。私たちはキリストのご聖体によって、自分も神への愛を与えるように呼ばれている。司祭だけでなく、洗礼によって聖体をいただく者として。

 

もうひとつはキリストの「へりくだり」。神の子でありながら人間となってくださったことはすごい「へりくだり」なのに、さらに十字架の死に至るまで従順で、人間としても「へりくだり」、さらにへりくだってご自分の体まで与えてくださった。聖フランシスコは、「キリストは、ご聖体のうちにご自分を私たちの手に渡している。私たちはそのキリストをどう扱っているか。私たちの手に渡ったキリストを、私たちはどれほど愛をもっていただいているか」と言っている。キリストに対しての私たちの考えを振り返ってみたい。

 

神の計画の中では、神が望みもゆるしもしないものは与えられません。一見悪いものに見えても、神はそこから何か良いものを導き出す恵みを与えてくださる。もしかしたら主は、ご聖体に対する信仰と愛を教えたかったのではないでしょうか。私たちのとるべき態度を、主は私たちに教えています。この時期はその良い機会だと感じています。

 

 

聖金曜日 主の受難の典礼

2020年4月10日(金)

 

聖金曜日の特徴は「沈黙」です。キリストの受難と死というこの偉大な神秘を前にして、言葉ではなかなか表し尽くせない感じがしています。

 

4つの福音書はそれぞれに受難を伝えているが、少しずつ違いがある。このヨハネ福音書では、キリストの威厳に満ちた姿、進んで受難を受ける姿が描かれる。キリストはどこまでもへりくだって、私たちへの愛のためにご自分を捧げられた。

 

人間は神から離れて自ら不幸になった。それが原罪で、それがあったからキリストが来られて、十字架にかけられた。他の方法もあったけれど、そうはなさらなかった。神はご自分の力を表して人間を服従させ、傲慢を打ち砕くこともできたが、それより人間との親しい関係の方を望まれた。愛を受けて愛するように、と。愛は強制できないので、神は人間の心に訴えることにした。それが十字架の神秘の側面。人間を服従させるほどの力のある方がへりくだって、人間ではないもののような惨めな姿になって、私たちへの愛を示してくださった。人間の固い心を砕くために…。

 

十字架は、神と人間の罪が衝突する場面。人間の罪と死は主の愛に呑みこまれてしまい、そこから血と水が流れて、恵みが満ちあふれる。それを受け入れると、罪のゆるしと永遠の命が与えられるのです。

 

 

聖土曜日 復活の聖なる徹夜祭

2020年4月11日(土)

 

この復活徹夜祭は、一年間の典礼の頂点になります。初代教会からだけでなく、ユダヤ人の過ぎ越し祭を受け継いでいるので、三千年以上前からのものですが、キリストによって新しいものになりました。福音の斬新さ、新しい恵み、そしてキリストも新しい方です。

 

他の宗教を見てもキリストと同じものはなく、復活の話もない。証人としてのキリストは、二人の女性に先に現れ、次いで弟子たちに現れ、500人にも一度に現れた。大勢の証人が真実を伝えているだけでなく、私たちも経験できる。復活されたキリスト自身と一緒に食事をするわけではないが、新しい命、新しい恵みは私たちも受けている。

 

聖パウロが言うように、「洗礼によって、罪に死んで霊的に生き、新しい命に復活する」。神ご自身の恵みを戴いて、聖霊が私たちのうちに住んでおられる。その新しい命は、自然の命を超える永遠の命。洗礼によって、私たちの体も復活して永遠の命に入ることになった。

私たちはどこまでこの大きな恵みを意識しているか。洗礼は一度だけのものであるが消えないもの。人は十分その命に生きていなくても、あとでもっと豊かに戴くこともある。既に戴いていても、さえぎられていることもある。たとえば地下水の流れる土地の上に畑を作り掘ってみると、そこからの水で畑が潤されるように。洗礼を受けたときによく準備できていなくても、後になって心と体にその恵みを受けることもある。

 

その思いを持って、教会はこの夜、入信者に洗礼を授ける。残念なことに、今年私たちの教会では志願者がいなかったが、普通はここで大人の洗礼と私たちの洗礼の更新をする。もっと豊かに恵みをいただくために、この夜の復活徹夜祭で。

 

この夜は救いの夜、すべての命の夜、永遠の罪のゆるしの夜です。信じて希望することは、すべてこの神秘から来ます。