復活の主日 2020年4月12日

第1朗読 使徒言行録 10章34a、37~43節

第2朗読 コロサイの信徒への手紙 3章1~4節

福音朗読 ヨハネによる福音書 20章1節~9節 

 

朗読箇所のテキスト(日ごとの福音)

 

 <お話の要約>

皆さん、ご復活祭おめでとうございます。どうも今年はこの緊急事態の中で、ご復活祭の気持ちになれないかもしれないけど、このような時期こそ、ご復活に対する信仰を新たにすることが大切だと思います。それは、私たちキリスト者としてのすべての希望の源です。

 

その希望というのは誰でも持っている。一般の信仰を持っていない方でも、このコロナウイルスのことは早く収まったらいいという希望を持っているが、そういう普通の希望は人間の自然のもの。キリスト者としての希望は神様に賭けている希望、信仰に基づいている希望だから特別なものである。聖パウロも言っているように、「私たちは希望によって救われる。信仰によってだけではなくて、希望によっても救われる。」特にこの時期に復活の希望を考えると、キリストの復活を通して、神様ははっきりとすべて人間を脅かすものは克服され、打ち勝たれた。今のウイルスのことでは、体の健康とか感染したらどうなるか、生活のことなど色々心配だが、それよりもっと人間にとって大きな脅威になるものは、私たちの心と神様との関係である。特に、罪と体の死のことはもっと大きな脅威になる。そのことに対しては、キリストの復活を通して勝利を収めた。復活の主日の第一朗読に聖ペトロが、「この方、キリストを信じる者は誰でも、その名によって罪のゆるしが受けられる。」と証ししている。

 

今日はこの復活されたキリストと出会う場面は読まれていないが、福音書ではマグダラのマリアとシモン・ペトロとヨハネが墓に行って、墓が空だったことを見つけて、これはどういうことかと驚き、この時はまだわからない。福音書の最後にあるとおり、「イエスが必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。」私たちキリスト者も、毎日曜日ミサのあるときは、信仰宣言の中でキリストが復活されたことを宣言している。でも、その本当の意味をどこまで理解しているか。自分の人生の中で、希望の拠り所としているか。それは今ひとつ、振り返る機会にもなる。

 

ふと思ったのは、ヨハネ福音で触れている布のこと。「彼は墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。イエスの頭を包んでいた覆いは亜麻布と同じところには置いてなく、離れたところに丸めてあった。」ご存知の方も多いと思うが、「聖骸布」というのはキリストの体を包んでいた布だと言われている。今はイタリアのトリノで保存されているが、ちょうどこの疫病の中でキリストの助けを求めるために、訪ねることは無理だがライブ中継で見て祈るようになっている。確かにこの布は不思議なもの。科学的な根拠があると思うのは、その布には血が付いている。十字架から降ろされたキリストだと言われている体(色々な議論があるとしても)を、その血がまだ出ている状態で包んで墓に収めた。血は渇けばくっつくので、布は体とくっついているはず。大けがをしたときには、そういう現象も見られる。そして、それを剥がしたら形が崩れるはずなのに、調べても布の中の体は腐敗していなかった。腐敗したら科学的にその跡が残る。剥がされもせず、その跡もなかった。どうやって、腐敗しないのに剥がされなかったのか。体もない。もしかしたら、それが本当に復活のひとつの遺跡になるのではないかと思われる。いずれにしても、人間的にも科学的にも説明のしようがない。

 

もちろん、私たちの信仰はそういうものに基づいているのではなく、むしろこの第一朗読にあるように、使徒たちの宣教に基づいている。実際に復活されたキリストに出会って、そのことを私たちに証ししている使徒たちの宣教を、教会はずっとその時から受け継いで来た。

でも、特に今は信じがたい時代になっているから、そういう時にはこのような具体的な遺物、「聖骸布」などがあると、いくらか私たちの信仰が強められるのではないかと思う。

 

いずれにせよ、今の時期こそ復活に対する信仰を新たにするときだと思います。私たちは、神様に希望をかけて、神様に対する希望を今の心の拠り所にして、この時期をより良く神様のみ心に適うように生きることができると思います。