「疫病中のご復活祭」

先日は三階の窓から覗いてみたらびっくりしました。教会の前の桜の木に花が咲いていました。普通だったら私はもっと早く気付きますが、どうも今年はコロナウイルスのことで色々考えて花が咲き始める頃を見落としました。でも人間がいくら思い悩んで振り回された思いをしても、桜の木は時期になると花が咲きます。主を信じる者なら、そこに希望の徴を認めます。復活祭が春に祝われるのは偶然のことではありません。冬の間に眠りに入り、春になると生き返る大自然が遠い昔からキリストのご復活を預言してきました。そしたら主もまたこの閉じこもった、死んだような状態から私たちをも生き返らせて下さるのではないかと主に希望をかけます。

しかし、桜の木と人間は同じではありません。桜の木なら、生命がある限り春になると自然の力によって花を咲かせます。私たち人間なら、自分の力によってではなく主の力によって救われますが、主に救われるのを選ばなければ救いはありません。私だったら、ついこの疫病が「早く治って欲しいな」と言ってしまうことがありますが、それはキリスト者としてふさわしくない態度ではないかと思うようになりました。結局、もとの生活に戻りたいと言う気持ちを表す言葉でしょうが、もし主がこの疫病を許されたのは、私たちをもとの生活から引き離す為だったならば、み心に逆らうことになるのではないでしょうか。信仰は歩みだし、大船教会共同体として「共に祈り、共に歩もう」と言うテーマに決めていますが、もしかしたら実際のところ、私たちはむしろ足踏みしていたから、主はこの疫病を通して私たちに「歩みなさい」と呼びかけておられるのではないかとも思われます。そしたら「救われるのを選ぶ」と言うのは「新たに歩み出す」と言う意味になるでしょう。

 

確かに今年の四旬節は以前の四旬節と違います。以前はちょっと違う典礼を行なって少し犠牲と祈りと献金をした他は、普段とあまり変わらない生活が多かったではないでしょうか。今年は一般社会では疫病の不安で、教会の中でごミサまでの断食で、普段の生活ができません。「主は私たちの楽しみの中でささやきますが、私たちの苦しみの中で叫びます」と言われていますが、確かに聖書から見れば、主は苦しみを通してご自分のことをあまり気にしていない人々の注目を引きつけようとされます。そしたらごミサに与れないことを嘆くより、その感じた不足を心から主を聖書のうちに尋ね求めることに切り替えたら「新たに歩み出す」ことになると思います。そうする人はこの大変な状態の中でも内面的に主の復活に与る者になります。

 

話が変わりますが、おとずれ号外で知らせたように、十分気を付けながら赦しの秘跡を行いますが、詳細は電話でご相談下さい。なお、外出が危ない人は家で主に罪を告白して、例えば詩篇51篇を唱えて主の赦しを祈り求めたら赦して頂きます。無理をしてまで教会に来なくてもいいし、状態がよくなった時に告解したらいいです。