受難の主日(枝の主日) 2020年4月5日

第1朗読 イザヤ書 50章4~7節

第2朗読 フィリピの信徒への手紙 2章6~11節

福音朗読 マタイによる福音書 27章11~54節

 

朗読箇所のテキスト(日ごとの福音)

 

 <お話の要約>

いよいよ聖週間に入ります。今回は受難の主日(枝の主日)を祝います。普段だったら、キリストのエルサレム入場を記念して受難の朗読をします。この主の受難の神秘には様々な側面があると思いますが、今回の準備で特に心に留めたところは、キリストの「へりくだり」です。

 

第二朗読で聖パウロが強調しているように、「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じものになられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」考えてみればこれはすごいこと。同じことは集会祈願にもある。「全能永遠の神よ、あなたは人類にへりくだりを教えるために、救い主が人となり、十字架を担うようにお定めになりました。」それも一つ考えさせられたところ。キリストが十字架にかけられたのは私たちの救いのため、罪のゆるしと永遠の命をもたらすためだが、更に「へりくだり」を教えるためだった。そこには大きな意味がある。

 

人間が神様との関係において一番妨げになるものは「高慢」。高慢はあらゆる罪の大元になる、まさに悪魔の罪。人間は欲望に捉えられて誘惑に陥るが、悪魔は霊だけなので肉体的ではなく精神的な誘惑のみがあり、その最たるものは高慢。それは神様が私たちを救うために一番妨げになるもの。私たちが救われるためには、どうしても「へりくだり」を学ばなければならない。

 

キリストは私たちに「へりくだり」を教えるために十字架にかけられたと聞くと、ああそうだなあと思える。聖パウロの言葉に戻って考えても凄いこと。私たちだったら嫌なことを言われたら腹を立て、批判されたら気を悪くする傾向があるし、プライドを傷つけられることが少なくない。でも、神の子キリストは自分の創った人間の手で苦しめられ、十字架にかけられて殺された。それはすごい「へりくだり」ではないですか。聖パウロが言っているように、「神の身分でありながらそれに固執しようと思わず、僕の身分、人間と同じものになられた」。それも凄い「へりくだり」。聖トマスも説明しているように、キリストは神性を隠して人間のように見えたが、更にへりくだって、十字架の死に至るまで従順になり、人間としてもへりくだった。十字架にかけられた人はもう人間の姿ではなく、詩編にもあるように虫けらの姿。キリストは十字架にかけられてご自分の神性まで隠して、人間とも思えない惨めな姿になった。それは私たちの救いのため。人間だったら誰かが威張ると、その人を貶めようとして力で戦おうという誘惑になるが、キリストは全く違う。高慢になった人間の前に神の力を表して怯えさせるより、むしろ威張っている人間の前に自らへりくだって、その人の手によって苦しみを受け甘んじて殺された。それは神様の救いの望みに基づいている。人間を服従させることは主の目的ではない。主がご自分の力をほんの少し表したら、人間はすごい恐怖で逆らえず服従する。聖書はそれを証明している。でも、恐怖で服従させることは神の望みではない。

 

神様は人間がご自分を愛するように求めておられます。力によってはそうならない。威張っている人間に対して高慢を砕くより、へりくだってその人の心に訴えられます。それに気づいたら人間は自分の高慢を反省して、へりくだる救い主の前で自分もへりくだることを学びます。そこから救いへの道が開かれます。