四旬節第4主日 2020年3月22日

第1朗読 サムエル記上 16章1b、6~7、10~13a節

第2朗読 エフェソの信徒への手紙 5章8~14節

福音朗読 ヨハネによる福音書 9章1~41節

 

朗読箇所のテキスト(女子パウロ会公式サイト)

 

<お話の要約>

こうして早くも四旬節第4主日まで来ています。これは四旬節の転換期のような感じで、これからは後半に入って主の受難の神秘が中心になります。今日の福音書は、キリストが生まれつき目の見えない人の目を開けてくださるという奇跡の話です。この話はとても奥深いものです。初代教会から特に洗礼志願者についての話として考えられてきました。

 

目を開けていただいたこの人は、信仰の中で心の目を開けていただいたことに関連してくる。奇跡の中で信仰の歩みも見られる。この場合の奇跡はキリストの方から一方的に奇跡を起こす感じ。本人にも話しかけないで癒してほしいか何も質問しないで、キリストの方から進んで癒してくださる。それはよかったけれどその人自身はどう思うかと聞いたら、最初はあの方は予言者だと言っていたのが、さらにその後のやり取りで最終的にはキリストに向かって信じますと言うようになる。メシアとしてのキリスト、この人の場合は体が癒されたことから次第に心も癒されて信仰の目も開かれた。

 

この目が開くというのは精神的なことも指す。どこかで読んだ記事だが、ある高校生が何かのことで失明してしまった。今まで普通のように見えていたので最初はひどく落ち込んだけれど、次第にこれがきっかけでもっと深く自分の心を見つめて、生きることについて考えて、いろいろの気づきがあった。それによって自分の価値観とか生き方も変わり、それを大事にするようになった。到達した結論は印象深い。「私は目が見えなくなったことによって本当に何が大切なことかが見えるようになった。」逆説的だが、確かにそういうこともあるかなあと思う。でもそれはどちらかというとまだ人間的なレベル。私が理解する範囲で仏教の悟りに似ている。自分の内面を見つめて自分に気づき、開かれ、もっと深く見ることになる。確かに多くの人は外面的なことを集中してよく見る傾向にある。だから人間が自分の内面に心の目を向けて理解しようとすることは、大事なことだがなかなか難しい。

 

ここで聖書の中で話しているのは、さらに違う次元になる。聖パウロが第2朗読でこう言っている。「眠りについている者、起きよ。死者の中から立ち上がれ。そうすれば、キリストはあなたを照らされる。」元は初代教会の洗礼の時の歌ではなかったかと思われている。実際に古代教会の時から、洗礼は「照らし」と呼ばれてきた。心が照らされて心の目が開かれた。でもこれは悟りと違って、自分の内面的な心が見えてくるだけではなくて神様のことが見えてくる。信仰の神秘がわかるようになる。自分の社会的視野がこの世界を越えるまで広くなる。信仰による心の目が開かれて照らされるということは、こういうこと。

 

聖パウロはさらに進んで言う。「あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。」これもまた悟りとは違って、照らされて恵みによって心の目が開かれる働き、キリストに結ばれてキリストを信じる人自身が光となって、光の子として歩むようになる。照らされて周りの人を照らすようになる。たとえば皆よく知っているマザー・テレサは、その活動、貧しい人に献身的に尽くすことによって多くの人に感動を与え、希望と愛についての憧れを与えてくれた。その意味では既に光となってほかの人を照らしている。それはマザー・テレサ自身と言うより彼女の内におられるキリストがそうしてくださった。

 

私たちの四旬節の歩みも同じです。キリストを求めてキリストに照らされて、聖パウロも言うとおり、暗闇の技から離れて光の方に歩み出し、キリストに照らされて私たちも光となっていくように呼ばれています。