「主のみ顔を尋ね求めよう」

四旬節の典礼は私たちに回心を呼びかけます。最近もっと強く感じていることですが、回心の問題は私たちが考えているところと違うところにあるのではないでしょうか。キリスト者でも何となく「改心」を考えている気がします。でも主は「回心」を呼びかけています。聖書を翻訳した学者たちはこの違いを意識してわざと違う漢字を使いました。

 

その違いを理解する為には創世記の原罪の場面が大事な手がかりを与えてくれます。2章25節には「人と妻は二人とも裸であったが、恥ずかしがりはしなかった。」と書いてあります。ところが、禁じられた木から実を取って食べたら、「二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした。その日、風の吹くころ、主なる神が園の中を歩く音が聞こえてきた。アダムと女が、主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れると、主なる神はアダムを呼ばれた。『どこにいるのか。』彼は答えた。『あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております。わたしは裸ですから。』」3章7節~10節。

 

以前主なる神との恥ずかしくない、親しい関係を持っていた二人は恥ずかしくなって、恐ろしくなって隠れています。でも聖書が教えているように、主なる神は何もかもご存知で全てを見ておられるから、主なる神から隠れようがありません。そしたら二人は隠れようというより、自分に主なる神を隠そうとしています。まるで「主なる神の顔を避けて」見えないようにしたら、自分も主なる神から見られなくなるだろうという思いみたいです。これは今日に至るまでの人間の姿です。現代社会を見れば全部は主なる神抜きにして動いています。精一杯社会生活を送ったら容易に主なる神の顔を避けてずっと見えないようにできます。

 

「改心」は心を改めて行いを正すような意味なら、「回心」は心を回す、心の向きを変える、主なる神の顔を避けるのをやめて、むしろ主なる神の顔を求めることを意味しています。「心よ、主はお前に言われる『私の顔を尋ね求めよう』と。主よ、私はみ顔を尋ね求めます」詩篇27:8。

 

 

※「おとずれ」3月号に掲載予定だった巻頭言です。新型コロナウイルスの影響でミサが中止になり「おとずれ」の発行が延期となりましたので、巻頭言だけホームページに掲載しました。