「キリスト者の終活」

9月に入ったらもうすぐ敬老の日です。アメリカではこのような祝いがありませんが、とても有意義なものだと思います。やはり私たちは人生の先輩たちから沢山のものを受け継いでいます。もし平和な日本に暮らせるなら、それは先輩たちのお陰です。年を取った親に対しては尚更のことです。

私は帰国している間、なるべく長く91歳の父と87歳の母のところに泊まって少しでも親孝行をしようとしました。両親と一緒にいる間もっと感じますが、やはり親の恩は返しようがありません。誰も自分の親を選べませんが、私は自分に与えられた親のことで心から主なる神に感謝しています。今の自分があるのはこの親に恵まれたからでもあるということをつくづく感じました。次の休暇の時にまた会えるかどうかわかりませんが、父と別れる時に「もしこの世でまた会えないなら、もう別れることのないあの世で会おう」と言いました。父は「そうしよう」と答えました。

 

そしてデトロイトのPIMEの宣教師は引っ越し中だから、私がデトロイトに残したものを整理することになりました。もう前期高齢者になった私にとってはちょっとした「終活」の機会になったと感じます。物を長く使わないなら、それはその物が必要ではない証拠だと思います。なるべく物を上げたり寄付したり処分したりします。写真を整理している時に時間の流れを強く感じました。自分の今まで歩んだ人生の道を振り返って、その時の恵みを感謝しながら二度と戻らないその時を主に委ねる機会になりました。物の整理だけではなく、心の整理の機会にもなりました。

 

キリスト者にとっては「物の終活」より「心の終活」が大事です。自分の過去からくる、心にまだ残っている未解決のものの整理です。自分を傷つけた人に対する赦し、自分が傷つけた人に対する謝り、自分の失敗や身に起こった不幸に対する受け入れ、今まで気づかずに頂いた恵みに対する感謝等などです。「心の終活」ができたら心が平和になります。そして心に残るのは感謝です。私にとっては父がその模範になっています。以前書きましたが、父の感謝の言葉を忘れられません。「僕の心は感謝でいっぱい。誰よりも幸せな人生を送って、誰よりも沢山の恵みを頂いた。天国に行って永遠に生きようとも主なる神に感謝し切れないだろう。」

 

多くの人は出世したいと努力しています。でも信仰の目から見れば社会的に認められた功績より、主なる神に喜ばれた人生の方がはるかに大事です。