「死ぬまでの回心の歩み」

灰の水曜日に司祭が頭に灰を掛ける時、それに伴う言葉の選択があります。「回心して福音を信じなさい」または「あなたは塵であり、塵に帰って行くのです」と唱えます。今年、私は敢えて二番目の言葉を選びました。暗い感じの言葉かも知れませんが、大切な教えがあります。ある時、死について話していたところで、自分が死について考えたことがない、しかも考えたくない、と言った人もいました。その人だけではなく、考えないようにしている人は少なくないと思います。

 

 でも主のご復活を信じているキリスト者は違う筈です。「死は終わりではなく、新たな命への門である」と教会は葬儀のミサの時に宣言しています。しかも人間のあらゆる望みを越えて人の心を完全な喜びで満たすのは、主なる神を顔と顔を合わせて見ることです。だからキリスト者なら、人間がこの世に生まれてしばらくこちらで暮らしてあの世に去って逝く、通り過ぎる存在であるという現実を見つめられる筈です。でもキリスト者も弱さもあるし、まだ信仰の歩みの途中でもあるから、この世の生活の楽しみや煩いに心を取られて、主なる神をおいて幸せを求めるから罪を犯します。こんなキリスト者に、死について考えることは回心に導く、と聖書は教えています。

 

「何事をなすにも、お前の人生の終わりを心に留めよ。そうすれば、決して罪を犯すことはない」(シラ書7:36)

 

近年の教会では主なる神の人間に対する愛を強調しています。それは正しいことです。「神は愛である」という聖書の教えは聖書全体を理解する為に何よりものカギです。そして主の愛と慈しみと憐れみには限りがないから、主は飽きてしまったから罰を下すというようなことはあり得ないのです。問題は人間に時間の限りがあります。人間は何かを選ぶ時、何かを決める時に様々な感情、偏見、欲望が絡んでくるから、戸惑う時もあれば考え直す時もあります。感情、偏見、欲望が体に基づいている心の動きだから人間が体を持っているからこそ心が変わりやすいです。人間は死んで霊魂が体を離れたらそういうところが全てなくなって理性と意志だけの存在に還元します。そのようになった人間はもう変化をもたらす要因はないから死んだ姿勢に固定されます。主を求めて主に向かって歩んでいる人はその姿勢が、主を捨てて自分の幸せを別のものに求めている人はその姿勢が、死んだら固定されます。だから回心できる余地は死ぬまでです。

 

人間が何を求めているかによってその永遠の状態が決まります。

 

自分の最後を心に留める人は自然に主を求めるように促されます。