「死を迎える時も祈ってください」

私は司祭として何人かの人の最期に携わったことがあります。末期癌を患っている、印象的な二人に最近出会いました。死は怖くないと言った一人の方に赦しの秘跡、塗油の秘跡、そしてご聖体を授けたら「これで安心して逝けます」と言いました。同じように三つの秘跡を授けたもう一人の方は、どれほど人生を通して頂いた数々の恵みを感謝しているか、またどれほど天国を楽しみにしているかを話していました。この二人の態度に感心しました。私も死を迎える時にそのような心になれば幸いだと思います。

 

 一般社会では「死」について考えたくない人は少なくないと思います。教会は典礼暦の最後の月である11月の間、特に最終的事柄(死、裁き、天国、地獄)について考えて祈るように呼びかけています。11月1日に教会は天国にいるすべての聖人を祝っています。そして翌日の2日に煉獄で清められているすべての人の為に祈っています。

 

ついでに言いますが、私は大分前から「煉獄」と書くのは誤解を招くものだと思ってきました。煉獄の「獄」は地獄の「獄」と同じ漢字だから、地獄に近いものだと思ってしまう人もいるのではないかと心配します。実は煉獄から地獄に落ちる人は決してないし、地獄から煉獄に上がる人も決してありません。煉獄と地獄の間に底なし淵があって、乗り越えることはありえないのです。煉獄にいる人は救われている人ばかりで、天国に行くことがもう決まっています。ただし、完全にされていない人は天国に入れないから、煉獄で清められてから天国に行きます。教会のカテキズムはこう説明しています。

 

「神の恵みと神との親しい交わりとを保っていながら、完全に清められないまま死ぬ人々は、永遠の救いこそ保証されているものの、死後、天国の喜びにあずかるために必要な聖性を得るよう、ある浄化の苦しみを受けます」(1030番)。

 

だから煉獄は天国に近いもので、天国に入る為の清めの場です。それを考えたら、「煉獄」と書くより、「煉国」と書いたらいいのではないかと思います。

 

何れにしても、教会は「我が身が死ぬ身」だということを心に留めるように勧めています。ロヨラの聖イグナチオはそれについての黙想も勧めています。自分が死を迎える時を想像して、死を迎える時から自分の人生を振り返って、何を後悔しているかを考えるように勧めます。そしたらその時を待たないで、悔いのない死を迎えられるように、今はどうしたらいいかを真剣に考えて主の導きと助けを求めるように勧めます。

 

私たちは「アヴェマリア」を唱える度に、その時の為の聖母マリアの助けを求めています。「神の母聖マリア、私たち罪人の為に、今も死を迎える時も、祈ってください。」主を信頼して、安心して感謝のうちに死を迎える人は何と幸いでしょう。