「天から降ってきた生きたパン」

主日のミサの聖書朗読は3年間のサイクルになっていますが、それぞれの年に一つの福音書が主に読まれています。A年はマタイ、B年はマルコ、C年はルカ。(ヨハネによる福音は主に毎年の四旬節と復活節に読まれています。)

今年はB年だから、年間の主日にほぼ連続的にマルコによる福音を読んでいます。ところが、マルコによる福音は一番短いので、年間の34主日分がありません。その為に今年の8月みたいに、1ヶ月ぐらいはヨハネ6章に載っているキリストの「命のパン」の話を読みます。これを機会に少しご聖体の秘跡について一緒に考えて頂ければと思います。

 

「私は、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。私が与えるパンとは、世を生かす為の私の肉のことである」(ヨハネ6:51)。

 

古代の教父たちが教えているように、強い命のものは弱い命のものを吸収して生きています。植物は鉱物を吸収して、動物は植物を食べて生きています。「生きたパン」であるキリストは永遠の命を持っておられるから、私たちより命の強い方です。だから、私たちが普通の食事をしてその食べ物を消化して自分の体の一部に変えているように、ご聖体のうちにおられるキリストは、私たちを吸収してご自分の神秘体の部分に変えて下さいます。ご聖体の秘跡の場合は普通の食事の反対になります。私たち自身が、自分が食べたものに変えられます。

 

こうしてご聖体の秘跡は、私個人がキリストに結ばれるだけではなく、信者同士の交わりの秘跡でもあります(典礼的には聖体拝領が行われている部分は「交わりの儀」と呼んでいます)。私たちが「キリストの御体」を頂いて「キリストの御体」になります。聖パウロが説明しているように、

 

「私たちが裂くパンは、キリストの体にあずかることではありませんか。パンは一つですから、私たちは大勢でも一つの体です。皆が一つのパンを分けて食べるからです。」 (1コリント10:12-27)。

 

同じ体に属しているものは、互いに結ばれています。私たちはキリストにおいて一つになっています。これは普通の人間的な連帯をはるかに超えている一致です。その意味で、信仰の歩みは「共に祈り、共に歩む」ものでなくては、本当の信仰の歩みになりません。他のキリスト者を差し置いて自分だけがキリストに結ばれることはありえないのです。