「生かされて、恵まれて、満たされて、聖とされて」

これを読んでいる皆さんは、もっと時間がたっていますが、私はこの巻頭言を聖霊降臨祭が終わったばかりの時に書いています。今度の7月に司教様を迎えて堅信式を行いますので、聖霊についてもっと考えるいい機会だと思います。ヘルパーさんと一緒にキリスト教講座と堅信の準備講座をしていますが、やはり「聖霊がわからない」という声が多いです。

想像ですが、おそらくそう言われる方々は自分の人生に聖霊を体験したことがないと思って、自分と縁のないもので分かりにくいと感じているのではないでしょうか。

 

これを読んでいる皆さんは呼吸していますか。突然質問されたらびっくりするでしょうが、やはり同時に自分が息を吸ったり吐いたりするのを意識するでしょう。人間というのは何も食べなければ長くても一ヶ月ぐらいで死ぬし、何も飲まなければ数日間で死ぬけれども、空気がなければ数分間で亡くなります。私たちは皆絶えず呼吸して生きていますが、普通はそれを意識していないのです。

 

実は「霊」と日本語に訳されている聖書の言葉は、原語のヘブライ語にもギリシア語にも「息」や「風」の意味があります。結局、私たちは呼吸と同じように聖霊に絶えず生かされていながら、それを意識していないのです。

 

これを読んでいる皆さんはキリストを信じていますか。聖パウロは断言します。

「聖霊によらなければ、誰も『イエスは主である』とは言えないのです」

(1コリント12:3)

 

「イエスは主である」という表現は古代教会の一番短い信仰告白だから、パウロは「聖霊によらなければ私たちはキリストを信じることができない」と言っています。あなたがキリストを信じているなら、それは自分の心の中で働いている聖霊の表れです。

 

これを読んでいる皆さんは、もっとキリストに似る者になりたいですか。それは人間の知恵や力では不可能です。「あなたの助けがなければ全てははかなく消えてゆき、誰も清く生きて行けない」と聖霊の続唱で聖霊に歌っている通りです。だから教会は「聖霊、来て下さい。信じる人の心を満たし、あなたの愛の火を燃やして下さい」と聖霊の助けを求めています。キリストを信じて洗礼を受けているなら、聖霊は確かに自分の心に住んでおられます。ただし自分が聖霊に導かれたり動かされたりすればする程、それだけ聖霊が自分の心を満たしていることになります。聖パウロが言うには私たちは、

 

「栄光から栄光へと、主と同じ姿に造り変えられていきます。これは主の霊の働きによることです」(2コリント3:18)

 

今度の7月に大船教会で大人11人と中高生6人が堅信の秘跡を受ける予定です。どうぞご自分の為にだけではなく、この人たちも聖霊の恵を豊かに受けて、心が聖霊に満たされるようにお祈り下さい。