「永遠の春」

子供の時、春になったら「四月の雨、五月の花」という言い回しを母からよく聞きました。関東地方より寒い気候のミシガン州ではこうした春の訪れのしるしをもっと注目しました。喜んで雪で遊びましたが、寒くて日が早く沈んだから、家にいる時間が長くなりました。長い冬に続く春の訪れはある種の開放感をもたらしました。裸になった木々は芽を吹いて葉っぱを出しました。雪が溶けてもっと遅くまで自転車で走り回りました。

人生にも季節があります。言い回しを教えてくれた母は当時若くて色々なことに関心を持っていた人でした。八人もの子供を育てるためにばりばり家事をやりながら、読んだ本や自分の経験からかなりの自己教養のある人です。五十代に糖尿病にかかって次第に体の調子が悪くなりました。八十歳を越えた今は大分弱って父に世話をしてもらっています。写真で見た結婚した時の母の春の姿、私の子供の頃の元気な母の夏の姿、子育てが終わってもっとゆっくり動くようになった母の秋の姿、今の父の助けに頼っている弱い母の冬の姿、それぞれ人間の歩む「人生の季節」です。

母はいずれ亡くなります。その体が葬られて腐敗します。復活するまで。

 

「しかし、死者はどんなふうに復活するのか、どんな体で来るのか、と聞く人がいるかも知れません。愚かな人だ。あなたが蒔くものは、死ななければ命を得ないではありませんか。あなたが蒔くものは、後でできる体ではなく、麦であれ他の穀物であれ、ただの種粒です。神は、御心のままに、それに体を与え、一つ一つの種にそれぞれ体をお与えになります。

 

死者の復活もこれと同じです。蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、蒔かれるときは卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活するのです。つまり、自然の命の体が蒔かれて、霊の体が復活するのです。自然の命の体があるのですから、霊の体もあるわけです。」(1コリント15:35-38,42-44)

 

創造主は季節の定めによって、人生の冬の後に春が来る希望を人間に暗示しました。キリストはご自分の体で復活したことによってその実現を告げ知らせました。聖パウロが説明しているように私たちは変えられます。冬の間眠っていて春になったら芽を吹く木のようではなく、蒔かれた種が別の体になるように、私たちは変えられます。春の草が生い茂るように、命に満ちた体に復活します。この世の人生の歩みは冬に至るまでですが、主の復活に与る者は永遠の春を生きます。