「大船教会共同体の歩みの中の四旬節」

この間の信徒総会で今年のテーマ「ともに祈り、ともに歩もう」が紹介されて、その意味の説明もありました。主イエズスの約束もあります。

 

「はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなた方のうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、私の天の父はそれを叶えて下さる。」

(マタイ18:19)

 

 

だからこの約束を信じて、私たち皆で「主よ、あなたの道を示して下さい。私に、私たちに。」と「ともに祈る」なら、主は「ともに歩む」べき道を示して下さいます。

 

主が道を示して下さる方法はいくつもあります。典礼はその中の一つです。私たちが祝っている四旬節は、主が私たち皆に今、回心の道を歩むように呼びかけておられることを意味しています。どんな回心でしょうか。二点が特に大切だという気がします。

 

一点目はイエズスが洗礼者ヨハネの二人の弟子に向けられた言葉を、イエズスから自分に向けられた問いかけとして真剣に受け止めることです。

 

「何を求めているのか」(ヨハネ1:38)

 

続いて、「それを誰に求めているのか」と考えたらいいと思います。私たち皆は漠然としても何かを求めているし、誰かにそれを求めています。幸せを人の愛情に求めるとか。成功を自分の努力に求めるとか。自分の価値を周りの評価に求めるとか。将来の安全をお金の蓄えに求めるとか。

 

そこでアメリカで起こったことの話を思い出します。ある人は、ヤードセールで古い絵を15ドルぐらいで買いました。絵そのものが欲しくなかったですが、その額を綺麗にして別の絵を入れて家で飾ろうと思いました。ところが、作業の為に額から絵を出してみたらもう一枚のとても古い印刷した紙を見つけました。よく見たらアメリカの独立宣言の言葉が印刷されています。専門家に確認したら何と当時刷った中の一枚でした。結局15ドルで買ったものを大金で売ることができました。その話を聞いた私はその売り手のことを考えました。恐らくその売り手は長年もその絵を持っていながら、どんな宝物がそこに隠れているかに思いもよらなかったでしょう。

 

信仰の宝を持っている私たちは色々なことを様々な人やものに求めながら、果たして永遠の命をイエズスに求めていますか。

 

二点目は赦しの秘跡を大切にすることです。私の最後の告解はどのぐらい前でしたか。赦しの秘跡を受けない理由はいくらでも見つけられます。神は愛だから告解しなくても赦して下さるだろうとか。同じ罪を繰り返して告解しても何も変わらないから意味がないとか。告解を考えたら恥ずかしい思いをして緊張するから気が進まないとか。告解しようと思うけどまだ準備ができていないとか。

 

結局上記の問いかけにどう答えるかによります。「何を求めているのか。それを誰に求めているのか。」自分の正しさを求めているなら、告解を避けるか、する場合は歯医者に行くような気分でそうします。イエズスを求めているなら、骨折した後でまた歩けるようになる為にリハビリに励むように、イエズスに自分の罪の赦しを求めます。