「主よ、あなたの道を示して下さい。」

(出エジプト33:13参照)

大船教会に赴任してから、もう二年近くになります。この間、私は色々な場で「信仰は歩みです」と繰り返しています。これは信仰生活の大切な原理です。信仰は歩みだから、持ち物でも保存するものではないのです。信仰は歩みだから、今の自分の弱さや失敗や罪でさえ歩み続ける機会にもなります。信仰は歩みだから、ごく小さな成長があっても感謝すべきですが、とても大きな成長があっても満足すべきではないです。そして信仰は歩みだから、どこの道を通るべきかを知ることは前提です。

 

 

教会は司祭のものでも司教のものでも教皇のものでもなく、キリストのものです。だからキリストという「道」を通らなければ本当の信仰の歩みになりません。だからと言って司祭や司教や教皇を差し置いて歩むなら、道からそれる恐れがあります。

 

大船教会に赴任してから、私がどうやって一人一人の信仰の歩みを助けることができるか、またどうやって大船共同体の信仰の歩みを助けるができるかを色々考えたり祈ったりしてきました。この間のキリスト教講座の「叙階の秘跡」についての話がきっかけになって、司祭と信徒の関係についてもっと考えてみたら、そこに信仰の歩みの為の大事な要素があると思うようになりました。ある意味で家族の生活に似ている点があります。子供の成長に連れて親子の関係が変わっていくように、信徒の成長に連れて司祭と信徒の関係が変わっていく必要があります。

 

第1段階では、信徒は「司祭に聞き従う」姿勢です。初めとしてはいいですが、この段階に留まったらキリストと司祭がダブって見えてしまうようになって、キリストと信徒の関係は、司祭次第になってしまう恐れがあります。

 

第2段階では、信徒はキリストのもとに導いてもらう為に、「司祭について行く」姿勢です。信徒はキリストを目指しているようになるから、もっと成長した関係になります。大船教会の場合はかなりの信徒がこの第2段階まで成長していると私は見受けます。特に「キリスト教講座」「聖書100週間」「ヘルパー会」がその成長を助けているように見えます。

 

第3段階では、信徒は司祭と一緒に「キリストについて行く」姿勢です。信徒は自分個人の歩みだけでなく、共同体の歩みにも関心を持つようになります。そして祈ります。「主よ、あなたの道を示して下さい。私に、私たちに。」でも祈りだけでは足りないです。共同体のことだから、祈りのうちに感じたことを率直に、遠慮なく分かち合う必要があります。質問や疑問や「わからないこと」も成長する必要のあるところを指しているから、本音で話すべきです。「三人寄れば文殊の知恵」と言われますが、一緒になって主の導きを求める共同体には「聖霊の知恵」が与えられます。共同体だから、話し合いをまとめて、主の導きが何であるかを判断する人が必要ですが、それは司祭の役割です。これはもっと深い意味の「共同宣教司牧」になると思います。信徒が司祭の仕事を手伝うだけではなく、司祭と一緒にキリストについて行きます。