主が来られるのを待ち望んでいます

待降節の合言葉は「待ち望む」です。何を待ち望むかというと、主の来臨です。でも教会は一つの来臨だけではなく、三つの来臨を待ち望んでいます。

 

第一の来臨は、主が聖母マリアから生まれた時の来臨です。しかし、それはもう終わったことだから、どうやってそれを待ち望むかと聞く人もいるでしょう。確かにキリスト者にとって、待降節は主のご降誕を待ち望んでいる期間より、ご降誕の偉大な神秘を祝う為の準備時間です。でもキリスト者は、

 

「神はすべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます」(1テモテ2:4)

 

ということも知っています。客観的にご降誕は過去のことですが、キリストを知らない方々にとっては、ある意味でまだ起きていない出来事です。だからそれを理解しているキリスト者は、主の第一の来臨の良い知らせがすべての人の心に響いて、すべての人の心に主が生まれるように待ち望んでいます。こうして待降節は福音宣教のために祈る季節でもあります。因みに待降節の間に大船教会の皆さんに特に祈って頂きたいことがあります。毎年クリスマスの時に多くの洗礼を受けていない方もごミサに参加します。どうか、主がこの方々の心に触れてこの方々が主の愛に惹かれるように祈って下さい。

第二の来臨は、世の終わりに主が栄光を帯びて、天使の大群を従えて全人類を裁く為に来られる時の来臨です。教会はごミサの中で主の祈りを唱えてから毎回「私たちの希望、救い主イエス・キリストが来られるのを待ち望んでいます」と祈ります(テトス2:13を参照)。しかし、主の再臨は待ち望むことより怖がることではないか、という人もいるかも知れません。確かに悪事を働く人にとっては主の再臨は恐ろしいことですが、主の愛を知ってその愛に希望をかけてその愛に応えようとしている人にとっては、主の再臨は救いの完成を意味しているから、それを心から待ち望んでいます。

第三の来臨は、他の来臨と違って目に見えないキリストの来臨です。それは主がご降誕から再臨まで聖霊のうちに来られる時の来臨です。主はみ言葉においてもご聖体においても、または共同体においても苦しんでいる隣人においても来られます。今年の待降節の「祈りの日」は特に主がみ言葉において来られることをテーマにしています。主のご降誕を祝ってその再臨を待ち望むだけではなく、主が私たちにも話して下さることを待ち望んでそのみ言葉を心に受け入れるなら、私たちは「現代社会の暗闇の中で希望を見出す」ことになります。

 

「あなたのみ言葉は、私の道の光、私の歩みを照らす灯」(詩篇119:105)

 

と書いてある通りです。実は多くのキリスト者は祈りが主に話すことであって、主が自分に話したいことをあまり考えません。でも主はこの世に生まれたのは、世の終わりまで絶えず私たちと一緒にいる為です。主は私たちに話したいと切に望んでおられます。私たちの人生を変える、私たちの心を希望と愛で満たす命の言葉を今の私たちにも話したいのです。