「神の武器を身に着けなさい」エフェソ6:13

人が世界の情勢を考えて怖くなるのは無理のない事です。テレビのニュースを見たら紛争の報道やら、北朝鮮の核兵器開発の報道やら、日本での犯罪報道やら、世界はどうなっていくかと心配するのは不思議ではないでしょう。そしてこんな社会的、世界的な動きの前で戸惑いや無力を感じる人は少なくないと思います。

 

教会は典礼年の終わりに近づいたら、世の終わりについての聖書の箇所を読みます。その箇所を読んでテレビニュースを見たとき、同じように怖くなる人がいると思います。

 

「戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞くだろうが、慌てないように気をつけなさい。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない。民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に飢饉や地震が起こる。しかし、これらはすべて産みの苦しみの始まりである。そのとき、あなたがたは苦しみを受け、殺される。また、わたしの名のために、あなたがたはあらゆる民に憎まれる。そのとき、多くの人がつまずき、互いに裏切り、憎み合うようになる。偽預言者も大勢現れ、多くの人を惑わす。不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる」 マタイ24:6-13。

 

私たちの時代が描かれているような気がしますが、考えてみれば世界史の色々な時代に当てはまります。その為に信仰は「歩み」であると同時に「戦い」です。キリスト者は様々な内面的、外面的な障害物を乗り越えて歩み続けます。ある意味では子供の成長にも似ています。子供は親に支えられて色々なことに挑戦していけば順調に成長します。親の支えがとても大切だし、失敗の可能性を含む挑戦の経験が刺激になるから、両方が成長に必要です。キリスト者の場合は、主の恵みに支えられて信仰の戦いに挑むなら成長します。だから信仰の歩みは「祈りと実り」の歩みと呼んでもいいです。祈りは主を慕い求める心の現れで、祈りによって主に結ばれて主の恵みに支えられて生きるようになります。恵みに支えれたキリスト者は自分の心の中の罪と戦って、色々な苦しみや反対を乗り越えたら、その信仰が「愛の実践」に実ります。

 

ファティマの聖母出現百周年の年は、もうそろそろ幕を下ろします。この年が単なる行事に終わってしまったら、非常に残念だと思います。聖母マリアは神を離れて悪の道を進んでいく世の中を見て、我が子である多くの人々が行き着く不幸に心を痛めて、私たちを信仰の戦いに召集しまた。これは各々の救いの為だけでなく、すべての人の救いと世界平和の為の戦いです。記念の年は終わりますが、これはずっと続ける必要のある戦いです。この為に今度も「初土曜日」または「聖母の土曜日」の祈りを続けたいと思います(今年の6月号を参照)。この記念の年がきっかけで、一人でも多くの方が聖母マリアの意向に従って毎日ロザリオを唱えるようになったら、または一人でも多くの方が聖母マリアの指示に従って「聖母の土曜日」の信心を行うようになったら、幸いに思います。