「老いる日まで、白髪になるまで」

この頃私は物忘れが増えています。頭が固くなったから、何回か叩かなければなかなか名前などが入らない感じです。でも一旦入ったら不思議な事に漏れます。固いものから漏れるはずがないのに。それで、よく忘れる人についての英語の言い回しを思い出します。

 

「あの人なら、肩についていなければ頭でさえ忘れるだろう。」この話をしたら「神父様はまだ若いから大丈夫。年を取ったらもっとひどくなりますよ。」と励まして下さる方もいます。「若い」とよく言われるけど、そんなに遠い昔じゃなくても大抵のサラリーマンは六十歳で定年退職になりました。私はもう六十三歳です。つい最近まで「前期高齢者」と言われた者が今は「若い」者になっています。社会の高齢化の影響でしょう。

 

九月に教会は全国民と一緒に「敬老の日」を祝います。高齢者に対する尊敬を表すことはとてもいいことだと思いますが、他の国ではあまり祝われていない感じがします。教会としては老いることを信仰の目で見ています。人生の高齢期は人生の完成期でもあります。桜の木の種は手に持てますが、良い土に植えて水をやれば、種が秘めている内面的な力によってどんどん成長して木に育ちます。環境の条件さえ満たされれば、桜の木はこうして自然に植物としての完成に向かって成長します。人間の場合はそう簡単ではないのです。人間にも環境の条件もあるし、人間としての完成に向かう生得指向もあります。しかし、人間の場合は自然にではなく、自由意志を持って自分の完成を選ぶ必要があります。その完成のはっきりした現れは感謝です。最近八十九歳の父から聞いた言葉はとても印象に残りました。「僕の心は感謝でいっぱい。誰よりも幸せな人生を送って、誰よりも沢山の恵みを頂いた。天国に行ったら神様に感謝するには永遠も足りないだろう。」父は次の主の言葉が真実だと、身を持って経験したから、そう言っていると思います。

 

「同じように、私はあなたたちの老いる日まで、白髪になるまで、背負って行こう。私はあなたたちを造った。私が担い、背負い、救い出す。」イザヤ46:4

 

大船教会の年配の方々に敬老の日のお祝いを申し上げます。教会の共同体は心を合わせて皆さんの健康と幸せをお祈りしています。皆さんの寂しい時、主が一緒におられることが感じられますように。皆さんの体力が落ちた時、主が担い、背負って下さることが感じられますように。皆さんの苦しい時、主が救い出してくださることを体験しますように。主に対する信頼と人からの助けが欠けることがありませんように。皆さんの長い人生を通して得た知恵が心の平和のもとになって、周りの人々にとって恵みになりますように。そして今まで主からいただいた数々の恵みが心の喜びとなりますように。