「主と同じ姿に造り変えられていきます」

四旬節の第3、4、5主日の典礼は「生きた水を与える」「世の光である」「復活であり、命である」キリストの神秘を私たちに示して、その神秘に入るように招いています。

 

「神秘に入る」とは「その神秘の恵みを心に受け入れて、その恵みによって自分がいくらか変わって成長していく」ことを意味しています。四旬節の歩みは決して苦行の為の苦行ではないのです。むしろ、第2主日の「主の変容」の神秘が示しているように、花が綺麗に咲く為に人が草取りをするように、私たちが主において変容していく為に、その妨げになるものを取り除くことです。

 

聖パウロは説明しています。

 

「主の方に向き直れば、覆いは取り去られます。ここでいう主とは、『霊』のことですが、主の霊のおられるところに自由があります。私たちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造り変えられていきます。これは主の霊の働きによることです。」

2コリント3:16-18。

  

もしかしたら聖パウロの言葉はピンとこないかもしれません。何を指しているかよくわからないこともあれば、そんなに「主と同じ姿に造り変えられていきたい」という気持ちにならないこともあります。でも私たちが求めていることは果たして他にあるでしょうか。人が素晴らしい景色を眺めて、我を忘れる程その美しさに心を打たれて感動することがあります。その美しい景色は、美しさそのものである創造主のみ業として、主の美しさのかすかな影を映し出したところで人の心を喜びで満たすなら、主ご自身を眺めることは何という望ましいことでしょう。そのような景色を眺めた経験は、それをした人にとって一生の心の宝になって、今の自分がそのお陰でもあるなら、主を眺めた人はどれほど変わるでしょうか。

 

または、自分を大切にしている人と一緒にいて、一緒にいるというだけで静かな幸せに包まれることがあります。それなら、唯一の自分、自分と全く同じ人間が世の始めから今まで存在しなかったし、今後も世の終わりまで存在しない、その自分をそのように大切に創造された方、絶えず自分を掌中の玉のように大切にしておられる方と一緒にいることは、何という望ましいことでしょう。人に大切にされたら、花が咲いて美しい色を示して香りを漂わせるように、自分が成長していくなら、愛そのものである主に大切にされていると感じた人は、どれほど変わるでしょうか。

 

または知りたい、理解したいという情熱に駆られて、様々な研究を重ねて、一つの発見があったらそれを喜ぶと同時に、その次にどんな発見がまだあるかを楽しみにしている人がいます。大自然などの秘められたところを研究することはそんなに魅力のあることなら、それを創造された主の神秘を極めることは何という望ましいことでしょう。研究を重ねた人は、視野が広くなって人生が豊かになっていくなら、知恵そのもの、真理そのものである主を知る人はどれほど変わるでしょうか。

 

主よ、聖霊を遣わして、私たちの心に刻まれている、その奥底に潜んでいるあなたへの憧れの火花を燃え上がらせてください。