「あなたは内にあったのに、私は外にありました」

アメリカで再映画化されたことをきっかけに遠藤周作の書いた小説「沈黙」がまた注目を集めています。私は昔その本を読みましたが、特に役人が宣教師を取り調べる場面が印象に残っています。

手元に本がないので正確に引用できませんが、私の覚えでは役人が司祭の宣教熱意を挫こうとして、キリスト教が日本人に合っていないから、福音宣教はまるで種を沼に蒔くような骨折り損だと主張します。それに対して宣教師は、合っていない訳ではなく、ちゃんと根を下ろしたが、日本の幕府はそれを抜いてしまったと反論します。歴史を見れば確かに宣教師の方が正しかったです。迫害の中で三万人から五万人ぐらいのキリスト者が殉教した程、宣教師や司祭がいなくても7世代にわたって信仰を守って次の世代に伝えた程、その信仰が日本人の心に根を下ろして成長しました。

 

これは大昔のことだけではないのです。九州の佐賀で働いていた時、一人のカトリック幼稚園の先生の話を聞きました。その先生は一般の家に育って多くの人と同じように家の宗教があっても個人的に信仰していませんでした。ところが幼稚園の先生の資格をとってカトリック幼稚園に就職したら、先生たちの為の聖書勉強会がありました。つまらないなと思いながらその勉強会に参加していましたが、ある日ルカによる福音の受難の箇所が読まれて、キリストがご自分を十字架にはりつけた人の為に「父よ、彼らをお赦し下さい。自分が何をしているのか知らないのです。」と取り成したことを知ってとても感動しました。そしてふと「これこそ私が一生探し求めていた方です。」と思ったそうです。興味深いことに、その先生はその時まで自分が何かをまたは誰かを探し求めていたことさえ意識していなかったのです。自分の心の奥底に潜んでいた望みに気づかないでいました。カトリック教会のカテキズムはこのことを説明しています。

 

「神への憧れは人間の心に刻まれています。人間は神によって、神に向けて造られているからです。神は絶えず人間をご自分に引き寄せておられます。人間はただ神のうちにだけ、求めてやまない心理と幸福を見出します」(27)。

 

これは民族を問わず全ての人のことを言っています。不幸になりたい人は先ずいません。一人一人があらゆる形、あらゆるやり方で探し求めている幸せは、極めるとそれは神を探し求めていることにたどり着きます。でも多くの人はそれに気づかないでいます。

 

「古くて新しい美よ、あなたを愛することが余りにも遅すぎました。あなたは内にあったのに、私は外にあり、虚しくあなたを外に追い求めていました。あなたに造られた物の麗しさに誘われ、落ち行きながら私の姿は醜くなりました。あなたは私と共におられたのに、私はあなたと共にいませんでした。あなたによらなければ無虚である物に捕らえられ、私の心はあなたを遠く離れていました。あなたは私を呼び、更に声高く叫び、聞こえなかった私の耳を貫いて下さいました。ほのかに光り、更に眩しく輝いて、見えなかった私の目の闇を払って下さいました。私はあなたの良い香りを吸い、私の心はあなたを求めてあえぎます。あなたの良い味を味わい、私の心はあなたを求めて飢え渇きます。あなたは私に触れて下さったので、あなたの平和を求めて私の心は燃えています」(聖アウグスチヌスの「告白」より)。