「神の子となる資格を与えた」 ヨハネ1:12

一昔前、私が佐賀教会にいた時、ある教会の青年から聞いた話です。その青年は十二月に教会の前にある松の木に飾りの電気を付けていた間、通りかかっている小さい子供がその母親に話しているところを耳にしました。「お母さん、見て。教会でもクリスマスを祝っているよ。」 笑い話になりますが、やはりそれだけクリスマスは知られながらも知られていないです。

確かにクリスマスは気に入っています。だいぶ前から多くの店で飾りが付けられたり、クリスマスの歌が流されたりしています。今年もクリスマスになると多くの人はデートをしたりケーキを食べたりするでしょう。何か暖かいものを感じているでしょう。

 

キリスト者ならクリスマスはキリストの誕生の祝いだということを当然知っています。でもキリスト者もやはり暖かいものを感じています。十字架で亡くなって復活したキリストより、赤ちゃんに生まれたキリストを身近に感じます。赤ちゃんは全然怖くなくて、かえってかわいくて人の注目を集めます。聖母マリアがキリストを抱いている絵を見たら、自分の母親からもらった愛情を思い出して心が暖まります。

 

世の中のことや世界のことを考えたら、それは一種の慰めにもなります。世の中に汚いことも結構あるし、世界では戦争や争いが跡を断たない状態だから、人は明るいもの、綺麗なもの、暖かいものに憧れます。自然の感情と言えば自然でしょうが、主なる神はそうした自然の気持ちを通して大切なメッセージを伝えているんじゃないでしょうか。

赤ちゃんが生まれる度に、それは主なる神がまだ世界のことをあきらめていないしるしだと言われています。もし、どんな赤ちゃんの誕生でもそうだとすれば、ましてキリストの誕生は尚更ではないでしょうか。キリストの誕生は人間の歴史が戦争や争いや苦しみ等に終わらない為のものです。人間が憧れている愛が誕生しました。真実の愛、信用できる愛、すべての望みを満たす愛、いつまでも終わらない愛。争いの多い世界の中でも、愛は空想ではなく確実に存在しているものです。

 

教会が毎年クリスマスを祝っているのは、人をいい気持ちにさせる為ではなく、むしろ人が恵みを受ける為です。全然悔いのない人生を送ってきた人は珍しいです。人間がいつまでも自分の過去に縛られない為の恵みです。キリストが赤ちゃんに生まれたのは、人間が生まれ変わって新しい人になる為です。しかも主の恵みで新しくなることに限界がないから、毎年いただける恵みです。しかし、キリスト者の間でもキリストの恵みの偉大さは知られながらも、どれほど本当に知られているでしょうか。