降るのを待つ季節

学生の時代にこのような話を読みました。第二次世界大戦の時、ある心理学者がドイツの収容所に入れられた。皆と一緒に苦しみながら心理学者の目で他の囚人を観察しました。そしたら一つの大事な気づきがありました。「また家族に会えるんだ」とか、何らかの希望を持っている人は生き延びました。希望をなくした人は、たとえその体が他の囚人よりまだ丈夫な場合でも、死んでいきました。希望を持っているかどうかは文字どおりに生死の違いでした。

 英語の諺には「命のある限り希望がある」というものもあるけど、その学者の観察が示しているように、「希望のある限り命がある」とも言えます。収容所みたいな極端的な環状じゃなくても、たとえ普通の社会生活においても希望を持っているかどうかによって、大きな違いがあります。生活が順調にいく時は希望を持ちやすいですが、逆境の場合はその希望のしっかりした度合いが試されます。現代社会では、希望をなくすことが多くの人の悩みの種となっています。ひきこもり、憂鬱、そして自殺。それに対して、希望を持ち続ける人は悩みや苦しみを乗り越えて成長していきます。

 

自然に湧いてくる希望もありますが、それは病気の時の回復の希望とか、悩みの時の解決の希望というようなものです。徳ではないのです。主に希望をかける場合に、初めて徳になります。主の約束を信頼して、聖霊の恵みによって自分の幸せをその約束にかけて、その実現を待ち望む徳です。人間は自然に自分の幸せを求めていますが、み心に適った求め方は人間の心を主に開いて、人間を主の恵みに与る者にします。

 

「私たちは、このような希望によって救われているのです。」 ローマ人への手紙8:24。

 

希望は待降節の大きなテーマです。その前半で教会は私たちの主イエスの再臨の希望を告げます。主が世を裁きに来られる時、その再臨を待ち望んでいる人々を救われます。

 

「このようなことが起こり始めたら、身を起こして頭を上げなさい。あなた方の解放の時が近いからだ。」 ルカ21:28。

 

今この世の中にはびこっているように見える悪の力は最終的に滅ぼされます。愛と正義と平和を求めて生きることは無駄ではないのです。そして主を待ち望んでいる者自身も自分の心にある悪から解放されます。主は来られます。命と愛と平和を与えに来られます。死より強い命、あらゆる憎しみより強い愛、あらゆる苦しみより強い平和を与えに来られます。

 

「主イエスよ、来て下さい。」(黙示録22:20)と祈り続ける者にはいつまでも希望があるから、いつまでも(永遠に)命があります。