主にいやして頂く為に、罪を告白し合い、互いの為に祈りなさい(ヤコブ5:16)

初代教会は「救われようのない人は先ずいない」というキリストの福音を力強く宣べ伝えて、皆に主なる神に立ち返って、罪を赦して頂く為にキリストを信じるように呼びかけました。キリストを信じるようになった人々は罪を告白して洗礼を受けて罪を赦して頂きました。何世紀もの間、洗礼を受けてから大きい罪を犯した場合は、ヤコブの手紙にあるような公の形で、信者は罪を告白して、司祭を通して罪を赦して頂いて、改めて共同体に迎え入れてもらいました。紀元6世紀ごろから現在の形の「告解」または「赦しの秘跡」に発展しました。

 

今年の「王であるキリストの祭日」(11月20日)で「慈しみの特別聖年」は幕を閉じます。皆さんは、この特別聖年についての話を何回も聞いたと思いますが、聖年が終わる前に赦しの秘跡の大切さを改めて意識して頂ければと思います。教皇フランシコはこの点についてこう書きました。

 

「たくさんの人が、再びゆるしの秘跡に近づいています。その中には、その体験を通して主に立ち帰り、熱心に祈る時を持ち、人生の意味を再び見いだすための道を見つける若者も少なくありません。確信をもって、もう一度ゆるしの秘跡を中心に据えましょう。ゆるしの秘跡は、いつくしみの偉大さに触れさせてくれるからです。すべての痛悔者にとって、それは真の内的平和の泉となるでしょう」 (公布の大勅書、17番)。

 

罪の告白はもう既に神に近づくことだ、と聖アウグスチヌスが説明しました。

 

「自分の罪を告白する者は、すでに神とともに行動しています。神があなたの罪をとがめておられます。あなたもまた、自分の罪をとがめるなら、あなたは神とともに行動しているのです。人間と罪びととは、いわば二つのものです。人間、それは神ご自身が造られたものです。罪びと、それは人間が作ったものです。あなたが作ったものを壊しなさい。そうすれば、神は神ご自身が造られたものを救ってくださいます。…自分のしたことが嫌になり始めたら、そのとき、あなたのよい行いが始まります。自分の悪い行いをとがめているからです。よい行いの始まりは、悪い行いの告白です。あなたは真理を行い、光の方に来ます」 (In ev. Jo. 12,13/ヨハネ福音書講話, 12番と13番)。

 

確かに赦しの秘跡に辛い面もあります。自分の罪を見つめることは楽しくないし、司祭の前でそれを口にするのは恥ずかしいです。でもその辛さが大きければ大きい程、恵みも大きいです。自分が神に愛されるに値しない者だと深く意識する時こそ、罪の赦しを通して示される神の愛の偉大さとありがたさをしみじみ感じて、神に愛される喜びを体験します。