マリア様、ありがとう

現在教会の主任司祭がアメリカで休みを取っているので、その代わりに私がおとずれを書かなくてはなりません。その事を聞いたときとても困りました。聖母の園老人ホームに入っていると何について書くかと悩みます。ところが突然、頭の中に光が出て、それでマリア様のご指導について、書きました。

小学校時代

マリア様に対する信心が、始まったのは、私が小学校3年生の頃でした。母が毎日午後9時頃、家族のみなを呼び集め、居間にひざまずいてロザリオを唱えました。それが始まりだったでしょう。そして、その次の段階、小学校4年生の頃に教えていたシスターが、教会を訪れて祈る時に神様が喜ぶと教えてくれました。その頃から私の頭にそこことが深く入ってしまいました。学校の隣に教会があって、8時のミサに与るようになった。その後、学校の講堂に行って母が作ってくれたサンドイッチを食べ、9時から勉強が始まりました。それが習慣になって、小神学校に入る時まで続きました。

 

次兄は良く勉強をしたおかげでイエズス会のハイスクールに特待生として受かりましたが、私には学校の教育レベルが高くて、イエズス会の学校に入ることが出来なかった。兄は友達がいたのでアウグスティヌ会の経営する学校を選んで入りました。

 

2年後に私は兄に従って同じ学校に入りました。入学試験で私は最低のDクラスに入れられました。それから宿題をちゃんと出し、よく勉強してBアベレージになり賞状をもらいました。3年生になって、オーナーズクラスに入れられました。教育係の先生の部屋に呼ばれて褒められ、嬉しかった。

 

召命

ハイスクールの2年生の頃、召命があった。はっきり覚えています、1月でした。わたしは学校の聖堂の外の歩道に立っていて、誰もいませんでした。晴れた日で、光が暖かでした。その時、たびたび司祭になりたいと強い望みを感じました。以前に教室の中でその司祭職の望みが来ましたが、割と早く消えてしまいました。だから、又消えるんじゃないかと誰にも話さなかった。翌日、学校のチャプレンを訪れて「司祭になりたいのですが、海外の宣教師になりたい」と強く言いました。チャプレンは、「司祭になりたいことは良いのですが、シカゴ管区のアウグスティノ会は海外に誰も送っていません。司祭になるには、最初はアウグスティノ会のシカゴ管区に入会したら良い」と教えられました。学校から帰った後、母に告白しました。母は喜びました。長男はシカゴ教区神学校に入っていました。父は賛成しましたが、一つ心配しました。アウグスティノ会では三つの誓願を約束しますが、そのうちの清貧の誓願が心配でした。教区司祭は清貧の誓願を約束しません。だから兄のように教区司祭の方がいいではないかと勧めましたが、私は別に気にもとめていませんでした。一つ反省があった。フィラデルフィア管区はキューバで学校と教会を経営していました。しかし、キューバは望んだところではなく、私はアフリカに行きたいと望んでいました。二つの理由があった。一つは、アフリカはみんな学校に行かないからやりやすいと思っていました。第二の理由は動物がたくさんいるから。

 

小神学校時代

9月になったら同級生と一緒に小神学校に行きました。素晴らしい田舎にあった。以前、ビル会社の社長が建てた建物でした。小さい湖もある森の中にあった。ラテン語の勉強は、同級生は皆先に二年間勉強していましたが、私は初めてだったので、もうだめだと思い、二週間だけで神学校をやめようと思いました。しかし、やめなかった。何故かというと、小神学校に入る前、母が州立の学校で教えていて、帰ってきてから夕食を準備し、ラジオを聞きながら私の衣類の名札を付けてくれたから。そのことを思うと二週間でやめることが出来なかった。その事が私を助けました。そのおかげで私は59年間司祭職を楽しんでます。神に感謝。

 

神学校時代

神学校は11年間ありました。小神学校が2年間、ノビス(会員になる為の勉強)になってから哲学を4年間と、神学を4年間。その11年間、宣教師になりたい希望は消えなかった。哲学院3年の時、アウグスティヌ会の司祭だったら宣教師になる機会はないと思ったので、メリノ―ル会に移りたいと思っていました。院長の許可をもらって、メリノール会の神学校に手紙を送り、入らせて下さいと願った。しかし、断られました。確かに私が書いた手紙の内容は少し変だった。今は、断られたことを感謝しています。アウグスティノ修道会の方がはるかに良いです。

 

ワシントンD.Cに神学校があった。聖堂の右側にマリア様の大きな大理石のご像があり、毎晩の祈りのあと、部屋に行く前にマリア様のご像の前でひざまずきました。「海外に送って下さい」と祈りました。

 

1952年、シカゴ管区から一人、フィラデルフィア管区から二人の司祭が日本へ送られました。長崎で土地を買って城山教会を建てました。やっと日本へ行くチャンスが巡ってきた。マリア様に毎日熱心に祈った。1954年に各管区からもう一人の司祭が送られました。1960年にシカゴ管区長は日本に訪れました。シカゴ管区の二人の司祭は土地と教会を建てたいと望んでおり、シカゴ管区から1万ドルか2万ドルの支援を頼みました。しかし、そのころシカゴ管区は神学校を作っていたため、お金がなかった。管区長はお金を送ることは出来ないが、一人の宣教師を送ることを約束しました。管区長はアメリカに戻ってから、各学校と教会に一人の司祭を日本に送りたいと言われたため、私は申し込みました。しかし、問題があった。私が住んでいた修道院の一人の司祭が先に申し込んでいて、その人が管区長から選ばれました。そこで、私はその神父さんに「私も申し込みたい」と知らせました。その神父さんは、「はい、どうぞ」と言って下さいました。そして、私の方が選ばれました。あとで、その理由がわかりました。彼のお兄さんがある修道会に入っていて、既に海外に送られていました。その二人のお母さんは二人も失いたくなかったため、管区長に連絡して子供を日本に送らないようにと願いました。そのおかげで私が選ばれました。

 

日本へ

貨物船の切符を買いました。日本にいる二人の司祭から、「沢山本を持ってきてください」と頼まれました。船の切符は350ドルで、荷物の量は自由でした。飛行機代は500ドルと貨物代が別にかかります。ワシントン州シアトル市で、出発する前に電話が入ってきました。乗るはずの船が、前の日に船長が酔っぱらって港湾の下にある岩にぶつかりました。その為に別の船に移りました。その船の私の部屋は広くて、二人が入るはずでした。もう一人も司祭でしたが、何かの理由でキャンセルになった。来るときは、まずカナダのキティマットで貨物を載せました。そこに着く前に、一人の船員がおかしくなったようです。キティマットに着いてから彼は自殺しようと海に飛び込みました。それを見て、フィリピンの船員は海に飛び込んで彼を助けました。その病気の船員の代わりに、ニュヨークから水陸両用の飛行機が別の船員を載せてきました。日本に向かって出発するのは二日後になりました。アリューシャン列島を通過したとき、海が荒くて波が甲板の上まで届きました。そのため、船の霧笛が夜も昼も鳴りました。船に乗っていた11人のお客さんの多くが船酔いになったが、私は平気でした。

 

横浜港に入る前の日まで、海が静かにならなかった。横浜に着いたのは8月14日でした。二人の司祭が私を迎えにきました。そして、東京見物に連れて行きました。その晩、横浜のシルクホテルに泊まりました。やっと日本に着いて大喜びでした。翌日8月15日、最初のミサは聖母マリアの被昇天祭で、聖ヨセフ国際学校の聖堂でした。ミサ後に小田急線で秦野市に行きました。秦野市には、面白い点が二つありました、まず、水無川があった。もう一つは割と大きな町だったにもかかわらず、信号機が一つしかなかった。朝にお巡りさんが出て、信号機を交差点の真ん中に置きに来ました。そして8時頃になると、お巡りさんがもう一回来て、信号機を歩道まで移動しました。

 

マリア様ありがとうございました。立派な国に連れてきて下さいました。感謝の心を忘れません。マリア様のおかげで、日本にきました。