「この最も小さい者の一人にしたのは、私にしてくれたことなのである」 マタイ25:40

マザーテレサの列聖式は9月4日にローマで行われる予定です。聖人になる為の奇跡は何年か前にブラジルで起こったけれど、長い間ローマの列聖推進担当者に報告はなっかたです。でもそれは主の計らいだったと担当者は話しています。報告の遅れによって、慈しみを示す模範であるマザーテレサの列聖式は、慈しみの特別聖年の間に行われるようになりました。

教会の伝統によってキリスト者は「慈善のわざ」を行うように呼ばれています。慈しみをいただいた者として慈しみを示すように呼ばれています。先月引用した聖ヨハネの言葉の続きもこれを教えています。

 

「愛する者たち、神がこのように私たちを愛されたのですから、私たちも互いに愛し合うべきです」 1ヨハネ4:11。

 

その同じ伝統によって「慈善のわざ」に二種類があります:「身体的な慈善のわざ」と「精神的な慈善のわざ」。身体的な慈善のわざとは、キリストが最後の審判の時に、右に置かれた人々に対して言われたような行動です。

 

「私が飢えていた時に食べさせ、のどが渇いていた時に飲ませ、旅をしていた時に宿を貸し、裸の時に着せ、病気の時に見舞い、牢にいた時に尋ねてくれた」 マタイ25:35-36。

 

それに教会の伝統は「死者を埋葬すること」を加えて七つの身体的な慈善のわざを認めています。マザーテレサのように文字どおりにこのわざを行う機会はそんなに多くないかも知れませんが、困っている人々を助けるあらゆる行動がこの代表的なわざに含まれています。

 

そして精神的な慈善のわざとは、「疑いを抱いている人に助言すること、無知な人を教えること、罪人を戒めること、悲嘆に打ちひしがれている人を慰めること、もろもろの侮辱をゆるすこと、煩わしい人を辛抱強く耐え忍ぶこと、生者と死者のために神に祈ること」です(イエス・キリスト、父のいつくしみのみ顔、15)。マザーテレサは特に身体的な慈善のわざのことで有名でしたが、やはりこの精神的な慈善のわざもたくさん行いました。晩年には広く尊敬されたマザーは始めのころよく反対を受けました。自分の活動は貧しい人々に注目を集めたから、それが嫌で批判した人もいました。施設を造ろうとしたら中々許可をもらいませんでした。マザーはこうした反対を耐え忍びながらその侮辱を赦しました。体の必要だけでなく、心をも大事にしました。「臨終の家」と呼ばれている施設に運ばれた人の証言があります。その手厚い世話を心から感謝しながらこう言いました。「私は動物のように暮らしていたけど、少なくとも人間のように死ねます。」 その行動に裏付けられたマザーの言葉は多くの人に光を与えました。疑っている人に信仰を強め、迷っている人に道を教え、悩んでいる人に励ましを与え、とらわれた人にその生き方を振り返らせました。

 

私たちは聖人たちの祈りに助けられてその模範に励まされます。マザーテレサ自身が教えたように、主はわざの偉大さを問いません。用はどれほど心を込めているかということです。心から行われた小さな、隠れた慈善のわざは主の前で大きな価値があります。私たちはこうした慈善のわざを行うことができるようにマザーテレサの取り次ぎを願いましょう。