「私たちに対する神の愛を知り、また信じています」その2

前回、私はこう書きました。「行いは先ではなく、恵みが先です。善い業を行なったから神に愛されているのではなく、神に愛されているから善い業を行います。キリストの道は恩返しの道です。」そして、こんな素晴らしい恵みを受け入れることに抵抗を感じる人は案外少なくないとも書きました。

ところで、抵抗を感じないで、むしろ私たちに対する神の愛を知りたい、信じたいと望んでもなかなかそうならない人は、どうしたらいいでしょうか。その人にとって神はまるでどこか程遠いところにおられるかのように、いくら探しても出てこられません。「あなたは神に愛されている」と言われたら、頭では賛成して自分もそう思っているけど、理想的なきれいごとのように実感が湧いて来ないです。しかし、聖書は「神は愛」と断言しているし、その証拠はキリストだと説明しています。

 

「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛して、私たちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります」(1ヨハネ4:10)。

 

神はそこまで愛を示して下さるのに、どうしてその愛をもっと簡単に感じさせないのでしょうか。

 

ある青年の話を思い出します。その人は精神的に暗闇にさまよっている感じで、神を求めながら罪悪感に悩まされて、なかなか神を見出さないでいました。ところが、ある日聖書の言葉を思い巡らしている時に、思わず一つのイメージが心に浮かびました。神が自分に近づくと自分は背を向けて避けていました。意識的に神に向き直ったら、光が閉じこもった部屋に差し込むように、暗闇が払われて自分が神に愛されているとつくづく感じて、心が喜びに満たされました。

 

この青年の経験は個人的なものだけど、ヒントを与えてくれます。意識的に神を求めている時でも、無意識にそれを避けていることもあります。人間の心は複雑です。自分で自分の心を読み取ることは簡単ではないのです。

 

「人の心は何にもまして、把え難く病んでいる。誰がそれを知り得ようか」(エレミヤ17:9)。

 

それと同時に心は神の愛を知り、信じる鍵になっています。目に見えない神は特に人の心に語りかけているから、特に心からの祈りは自分を開いて神に出会うようにしてくれます。それに、神のみ言葉である聖書には特別な力があります。神を求めて聖書を読んで思い巡らすなら、神に自分の心に入る隙間を与えます。神の愛を知りたい、信じたい望みを心に抱いて神を求め続けるなら、いつか無意識の逃避をやめて神に心を開きます。