「私たちに対する神の愛を知り、また信じています」(ヨハネ4:16)

今年は慈しみの特別聖年を祝っていますが、それは私たちの救いは恵みによるものだという事実をもっと心に留めることになればと願っています。

何年か前に、ある女性が私に自分の悩みを打ち明けました。理想的な生き方に憧れて、キリスト教に近づいて勉強して洗礼を受けました。しかし、期待したような理想的な自分にならなくて、がっかりしました。そして、キリストが教えている通りに生きていくことは、とても負担に感じて反発していました。

 

でもキリスト教は理想を追っていく道ではなく、恵みに答える道です。今の自分、ありのままの自分、欠点や弱点や罪のある自分、自分で嫌いな部分のある自分、その自分がそのまま主に愛されていることから、その道を歩みだします。聖パウロがこのことを説明しています。

 

「事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。それは、誰も誇ることがない為なのです。なぜなら、私たちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業の為に、キリスト・イエスにおいて造られたからです。私たちは、その善い業を行なって歩むのです」 エフェソ2:8-10。

 

すなわち、行いは先ではなく、恵みが先です。善い業を行なったから神に愛されているのではなく、神に愛されているから善い業を行います。キリストの道は恩返しの道です。

 

毎日曜日祝っている主の受難と復活の記念は、恵みによる救いの祝いです。聖パウロはまた説明します。

 

 「正しい人の為に死ぬ者はほとんどいません。善い人の為に命を惜しまない者ならいるかも知れません。しかし、私たちがまだ罪人であった時、キリストが私たちの為に死んでくださったことにより、神は私たちに対する愛を示されました」 ローマ5:7-8。

 

ところが、こんな素晴らしい恵みは誰でも喜んで受け入れると思われるかも知れませんが、実は抵抗を感じる人は少なくないのです。色々な理由があるでしょう。例えば自分のことが嫌で仕方がない人にとっては、いくら慈しみ深いと言っても神が自分を愛することができるということは信じがたいです。逆に人間関係の問題は他人のせいだと思い込んでいる人は、自分を振り返りたくないです。夫から暴力を受けた女性の経験を思い出します。その女性はよく祈って苦しみながら、やがて夫を赦すようになった。でも「あなたを赦すようになった」と夫に言ったら、かえって怒られました。赦しを受け入れるには先ず自分が悪かったと認める必要があるから、それが嫌で夫が怒りました。または、日本の諺「只より高いものはない」というような警戒心からの抵抗もあります。確かに主は私たちのすべてを要求します。ただし、私たちのすべての望みを、私たちの想像をはるかに超える形で、叶えて下さることを約束しています。聖パウロが証言します。

 

 

「私たちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます」 2コリント4:17。