復活節第6主日 2024年5月5日

先に下記リンク先の聖書箇所を読み、黙想してから動画をご視聴いただくことをお勧めします。

 

朗読箇所のテキスト(日ごとの福音)

 

第1朗読 使徒言行録 10章25~26、34~35、44~48節

第2朗読 ヨハネの手紙一 4章7~10節

福音朗読 ヨハネによる福音書 15章9~17節

 

<お説教要約>

今日の福音書は先週の「主はまことのぶどうの木、私たちはその枝である」という話の続きです。全体としては、聖書と私たちの信仰の中心的真髄、確信といったところを指していると思います。聖ヨハネは第二朗読で、神様は愛であると断言しています。しかも、神様は先に私たちを愛してくださったのです。そしてその愛を示した頂点は、御ひとり子キリストを遣わして、キリストが私たちの救いのために命を捧げたことによって示されたのです。福音書でもキリストは同じように、このような御父の愛に触れて、父が自分を愛したように弟子たちを愛されました。だからイエズスの愛が先です。それも、ご自分の命を捧げることによって示されました。その上、イエズスは弟子たちを友と呼びます。友とは注釈にもあるように、自由で対等な親しい関係を表す言葉ですが、それは本当にものすごい愛の表れです。人間となられた神の子は私たちをしもべとは呼ばない、友と呼ぶ。なんという素晴らしい光栄でしょうか。私たちの身に余る光栄です。でもそれは主の愛によるのです。

 

ここまではみな嬉しく聞くところですが、その先はもうちょっと引っかかるところがあると思います。キリストは自分たちが選んだのではない、キリストが弟子たちを選ばれたというところです。私たちにも同じことが言えます。私たちがイエズスを選んだのではない、イエズスが私たちを選んだのです。確かに、成人洗礼の場合はその人が自分から教会に来て洗礼を求めたのですが、その人はやはり恵みの影響で、主の働きかけで、主の計らいの中でそこまでいった。キリストの愛がその人の心に届いたから、恵みを受けてキリストに近づくことができたのです。その意味で、キリストに選ばれたのです。

 

ただこれは社会的には通じないことです。今の世界を見れば、宗教は認められているしその自由も認められていますが、どちらかというと宗教は一つの趣味のように位置づけられています。世界的に。ちゃんと社会生活を送った上で余った時間、自由な時間に趣味をやるように宗教をやってもいいと。でも、社会生活に差し支えたり問題を起こさないように要求している風潮がある。実際にキリスト者の中でも、世間的な感覚で信仰生活を送っている人もいます。どちらかというと、信仰より社会生活を優先させるような生き方です。例えば一つは、ごミサへの参加です。主なる神がそこまで私たちを愛してくださってキリストは命を捧げた、そして御父は私たちを創造された方です。それを考えたら、主なる神を礼拝して賛美して感謝することは当然のことです。当たり前のことです。そのちょっとした恩返し、私たちは創られたものとして救われたものとして当然すべきことです。でも場合によっては、社会的な予定があれば簡単にミサを休む人もいます。もちろん現代に生きる者として、社会的な生活の中でそれを送る必要はあるんですけど、もしキリストのことを心にとめているなら、キリストのことを考えながら社会生活の予定を入れるはずだと思うんです。何か予定が入ったら調整できないかと…。それだったら、ミサに参加してあとは社会的なこともできると思います。

 

これは一つの具体的な例ですが、他のところでも同じようなことが言えます。社会的な価値観で生きるか、キリストが教えた価値観で生きるか…。様々な面でどちらを優先させるか…。でも選ばれた者だったら、私たちがキリストを信じるために自分からキリストを信じる条件を出すということは、やはり違う。私たちがキリストを選んだのなら条件を出すのは考えられますが、そうではなく、キリストが私たちを選んだのだから、私たちが条件を出すのではなくキリストが条件を出すのです。

 

もう一つの誤解というか勘違いは、この愛の話を聞いたら多くの人はそれに魅かれる。キリストが掟として言われた「互いに愛し合いなさい」ということを、本当に理想的だと感じる人は多いと思います。何となく人は愛は優しいばかりと思いがちなところがあるのですが、実は正義より愛の方が厳しいのです。正義は正義を満たすものを求めますが、その求めているところは限られています。あれとこれとそれをすれば、正義の要求を満たすことはできます。ただ、愛の要求は限られていないのです。愛はすべてを求めます。そしてそれは、キリストがここで言うように、ご自分の喜びが私たちの内にあって、私たちの喜びが満たされるためです。それは本当の喜びの秘訣です。人間は、キリストの愛に燃えてすっかり自分自身をキリストに捧げるときにこそ、この上ない喜びを感じます。人間はそのために創られたものです。そこは一つの大きな秘訣、社会的に世間的に見れば通じないこと、理解できないことですが、それは事実です。愛がすべてを要求するのは、私たちを完全に幸せにして喜びで満たすためです。